さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -4-
え、と紬は目を開ける。希衣と手を繋いだままであることに安堵の息を零し、辺りを見渡す。葵はいない。列車の中ではない。
「ここは……」
竹藪の中に似ているが、どこか作り物めいている。竹藪を抜ける道はどこにもなく、竹は人間が通れないほど肩を寄せ合い隙間がない。空を見上げれば竹の葉が多い茂り、空間ごと閉じているようで、まるで
「由衣さん、私、頑張りますね」
紬は不安に潰されそうな自分を奮い立たせる。
「由衣さんがいるから頑張れるんですよ」
だから由衣の場所へ戻るために。塗籠から出て、由衣の隣に立つために。紬は腹に力を入れて立ち上がった。
葵の警鐘が何を示しているのか、もしや手遅れかと危惧した紬は、危険がないか辺りをくまなく観察した。紬たちがいる空間は小さな部屋くらいの大きさで、半分以上を大きな苔のベッドが占めている。その上には見たことのない何か。水晶玉のようで、それよりも実態がない。
魂だ、と悟った。
神界に取り残された真白の魂。
「真白さん、」
紬が呼びかけると、魂は呼応するように明滅する。紬の声で目を覚ました希衣はすぐに状況を把握し、苔のベッドの上に座ると頭を下げた。
「――真白さん。あの、あたし……ごめんなさい」
真白の魂は優しい光を輝かせる。希衣はその答えに、忸怩たる思いで内心を吐露した。
「体を返すって約束したのに、あたし、怖くなって。でも真白さんのがもっと怖かったって、あたしがどれだけ真白さんに迷惑かけたかって、なんにも考えてなくて。ここに帰ってくるまで自分のことばっかりだった。ごめんなさい」
――楽しかった?
真白の魂はお人好しだ。嬉しそうな魂は跳ねるように上下し、希衣の謝罪を包み込む。その魂に触れて、紬は葵の姉を心から知った。自分を犠牲にしてまで他者を思いやれる心。希衣が憧れた天女の姿。
これが葵の姉の真白か。宇衛の子として全幅の信頼を寄せられる姉弟の芯は白く輝き、空の青さをも透き通る。
希衣は両頬を涙に濡らしながら、服の袖で目を擦る。すぐに浮かんでくる涙が溢れる前に、希衣はあどけない溌剌とした笑みを浮かべた。
「死んじゃいそうなくらい楽しかった!」
ありがとう、と言い終わらないうちに希衣は両手で顔を覆った。真白はそんな希衣の周りをふわふわと漂う。
「お別れだよ、希衣ちゃん」
紬は希衣の肩に手を置いた。終わりの合図にびくりと体を震わせる希衣は、けれど死への恐怖を往なすようにはっきりと頷いた。
「さあ、さよならをしよう」
紬は希衣の両手を握る。孤独に打ちのめされる希衣の顔は、見ていられないほど痛々しい。紬は顔を背けたくなるのを堪えて、真正面から視線を交わらせる。切実な叫びを押し隠す。希衣の瞳には紬が映っている。
紬は悲痛な顔をしていた。
『最期に見たいのは笑顔だよ』
かつて紬にそう言った人がいた。はっと思い出した紬は、涙を堪えながら、できる限りの笑顔を見せた。
希衣は写し鏡のように微笑んで見せ、消えた。
***
名前を呼ばれた。
ずっと待っていた。自分の名前。
真白はその声に飛びつき、目覚めると列車の中にいた。
「姉ちゃん!」
半泣きの葵が抱き着いてくる。真白はびっくりして硬直したが、葵の体温に感極まって瞳が潤む。久々に感じる肉体の感覚に、帰ってきたのだと実感する。
希衣は良い子だから。そう言い続けて真白は不安を押し留めていた。真白は今、心の底から希衣に体を貸してよかったと感じていた。希衣の謝罪は当然の揺らぎだ。生きられる可能性に縋ってしまうのは真白にも理解できる。
希衣は良い子だった。体を返して、ありがとうと笑んでくれた。真白はそっと葵を抱きしめ返すと、葵はすぐに恥ずかしがって身を捩った。
「……何ともない?」
「うん。心配かけてごめんね、葵」
葵は小さく頷く。その旋毛が懐かしくて真白は笑みをこぼした。
贄の子は年が明けると同時に神界に招聘される。それから希衣に体を貸して、大祭が終わったら返してね、と告げた。神界では時の流れを感じられない。今はいつで、真白が座っているここはどこなのか。今年が本厄なのは知っている。本厄の恐ろしさは両親や神主、占い婆などから聞き及んでいる。
真白は改めて周りを見渡す。景色が流れている列車の中だ。知らない大人がこちらを見ている。紺のスーツに同色のネクタイを締めた男性は、ジャケットの前ボタンを開けていて銀色のネクタイピンが光っている。もう一人の男性はブラウンのスリーピーススーツ。二人とも環町の外の人だとすぐに分かる。誰、と身が竦んだ真白は、葵の服の裾を引いて小声で尋ねた。
「葵……今、何が起こってるの?」
「環町の結界が壊れて、今修復するところ。この二人は警察の園寺和也さんと、探偵の由衣孝彦さん。本厄を止めるために環町の外からきてくれてる。あと一人遠香紬さんって人がいるんだけど、紬さんは神界に行って……」
「! 会ったわ。希衣ちゃんと一緒にいた」
「……それならよかった。今はまだ、無事なんだね」
葵の含みを持った言い方に皆が眉を顰める。「おい、」と声をかけたのは園寺と呼ばれた男性だ。葵はその声を無視し、列車の先頭にいる加見の元へ歩む。
「それで、この人が――」
「? 葵、その人は」
知っている。環神様の分身だ。真白はそう言おうとして、葵の険しい表情に言葉を呑み込んだ。
無表情の加見は列車の進行方向に背を向けて立ち、葵の行動に目を滑らせる。列車の中は密かに闇の興隆が加速し、窓の外にはいつの間にか三日月が顔を出していた。
葵は加見の前に立ち塞がった。
「――お前は堕ち神だ」
無表情だった加見は一転、ニイと嗤った。
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