さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -3-


 年明けの鐘が鳴り、新年を迎えた環町。選ばれた贄の子が神界へ呼ばれた。丘の上から飛んだ魂の軌跡を追った希衣は、神界の贄の子が眠らされる空間に辿り着いた。そこは竹林の中に似て、苔のベッドに、竹が丸い空間を形作る場所だった。

 苔の上に寝かされていたのは真白だった。

 白い水玉柄がプリントされた灰色の寝巻は、真白に良く似合っている。暖かそうに起毛する襟首。顔にかかる黒髪は簾のようだ。


「ねえ」

 希衣が呼びかけても返事はない。

 そうだ、贄の子は名前を呼ばれるまで眠り続けるんだっけ。

「宇衛真白、さん」

 希衣が呼びかけると、すぐに真白は目を覚ました。真白はぼんやりと辺りを見回すが、頭がはっきりしないのか眠たそうな顔つきのままだ。


 名前を呼ばれても神界に留まっているのはどういうことだろう。神界にいる霊魂に呼ばれても帰り方が分からないのかもしれない。

 神界の、魂が眠る場所。魂は二つ、体は一つ。

「ねえ、体を貸してくれない?」

 口を突いて出た言葉だった。

「え……?」


 真白はやっと希衣を見た。希衣が一方的に知っているだけの関係だ。真白は希衣を見ても首を傾げたまま、言葉の続きを待っている。

「あたし、死んじゃったの」

 意図せず声が震えた。希衣は自分の名前と、事故の話を真白に打ち明けた。気丈に話そうとすればするほど、押さえつける激情が揺れて声に現れた。喉につっかえて、声が裏返って。体があれば涙を流していただろう。聞き取りづらい話し方をしてしまったけれど、真白は丁寧に頷いて最後まで聞いてくれた。


「あたし、ずっと真白さんに憧れてたの。背が高くて、黒髪が綺麗で、丘の上に住んでて、神楽を舞う巫女さんで……お願い、すぐに返すから、その体を貸して下さい」

 そして心根の優しい真白は「いいわ」と、欣然として体を明け渡した。

「本当を言うとね、新年って私には憂鬱なの。大祭の責任に押し潰されそうで……大祭の舞台で転んだり、舞を間違えたり、そういう夢を何度も見るのよ。輿望よぼうを担うのも、もう疲れちゃった」

 だから変わってくれるのは、少し嬉しいかも。


 真白は希衣を励ますように魂の姿になった。空っぽになった体に希衣が入り込むと、久々の肉体の感触に心が震えた。「大祭が過ぎたら体を返してね」と言う真白の声を後ろに、希衣は真白を呼ぶ誰かの声に身体を引っ張られて、気がついたら真白の部屋のベッドで眠っていた。



 大祭はとっくに過ぎている。紬が眉を顰めると、希衣は慌てて訂正する。

「違うの。分かってるの。大祭は終わって、あたしは巫女になれて、環神楽を踊れて……夢みたいだった」

 希衣は涙を飲み込んで懺悔するように身を屈めて言う。

「生きてみると、よく分かる。もっと生きていたいって願っちゃうの。分かってる、許されないことだって」


 希衣は、紬に付き添って占い婆の館や、加見の事務所に案内してくれた。演技などではない。本厄の環町を憂いていた。紬たちが見つけられなかった『隙』を、大祭の前夜に葵と見つけてくれた。御霊と共に事故を未然に防いでくれた。その心は本物だ。希衣の優しさは死と共に損なわれてはいない。

 紬は希衣の前にしゃがんで両手を取った。冷たい指先が震えている。『隙』を埋めようと奔走する日々が続く中で、自分の存在が『隙』を作っていると気付いてしまったら。苛まれただろう。辛かっただろう。


「希衣ちゃん、環神楽を観に行けなくてごめんね。それと、ずっとありがとう。私は希衣ちゃんに助けられてたよ」

 ヒック、ヒックと嗚咽を漏らして泣く希衣。その背を、隣に座った園寺が宥めるように撫でる。

「……体を返そうか」

「………………でも、」

「お父さんとお母さんが待ってるよ」


 当たり前の日常が、唐突に色を失う。希衣は一度体験した。死ぬ瞬間よりも恐ろしい、永遠に続く悪夢。いや、今までが幸せな夢を見ていたのだ。起きてしまったら二度と戻れない泡沫の幸福。もう一度手放せと、そう言われても。

 そんな勇気はもう、使い切ってしまった。

「できないよ……」

 希衣は泣きながら頭を振った。手のひらで顔を覆うと、顔じゅうが涙でぐしょぐしょになる。


 できない。怖い。ひとりぼっちは嫌だ。

 痛いほど分かる。胸中を察するほど、強引に終わらせることなどできない。

 紬は嘆息すると「加見さん」と提案を持ちかけた。

「私が希衣ちゃんと神界まで一緒に行く、そういうことってできますか」

「ん、ああ……前例はないが、やってみるか」

 濡れそぼる雲間から、希衣が潤んだ瞳で紬に縋る。紬は由衣の顔を伺うと、由衣は鷹揚に頷いて見せた。


 大丈夫、と紬は自分に言い聞かせる。

 すぐに戻ってこられる。希衣を送り出して、真白に体を返して、自分の霊力を環神様に捧げたら。由衣が名前を呼んでくれる。

 加見は希衣と紬を並んで座らせると、額に手を置き、二人に手を繋いで目を閉じるよう告げた。

「次に目を開けたら神界だ。いいな?」


 紬は希衣と視線を交わして目を閉じた。瞼を閉じた瞬間に、瞼の裏を闇だと感じる前に、どこかに引っ張られて行くのを感じた。それは雲から落ちるようで、否応なしに吸い込まれる意識が最後の一欠片を残したその時、

「だめだ!」

 と叫ぶ葵の声を聞いた気がした。

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