さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -2-
紬の霊力は人並外れている。今環町を彷徨っている幽霊の浄化、そして本厄を退けるほどの強固な結界を再構築する役どころは紬に向いている。
「それなら大丈夫ですよね、加見さん」
「……ああ」
加見は驚きつつも肯定した。紬は由衣と視線を交わらせる。由衣は顎の下に手をやり、推理を一から始めた。
「贄の子がなぜ見つからないのか――それは本厄とも関係があると考えるべきだ」
環町では年に一度、誰かが神界に呼ばれる。霊力は神様の力の源であり、環町を護る結界の礎だ。神界に呼ばれた誰かは名前を呼ばれるまで眠りに就く。期間は最長一年。もし名前が呼ばれなければ、そのまま二度目の贄として命を散らす。
葵から推理の材料を聞き出した由衣が答えを構築するのには、さほど時間はかからなかった。
「御霊は『いるのにいないみたい』と言っていたようだね。それはどちらかが欠けている、ということではないのかな」
由衣はゆっくりと、列車の進行方向とは逆に歩む。腕組みをして事の成り行きを静観している園寺、列車の運転席の前に立つ加見に背を向けて。真白の隣に座った由衣は、向かいの葵に笑んで見せた。
「元来、魂と肉体は離れやすい。幽霊がその最たる証拠だね、大抵の幽霊は魂の残滓に過ぎないが、中には強い意志を持った魂が肉体から乖離する……そんな現象も起こり得る」
由衣がそれを『隙』だと言ったように。
紬はしゃがんで、俯いている真白の顔を覗き込んだ。
さらさらの黒髪の向こうに見えた真白の顔は、くしゃくしゃに歪み――悔しそうに、歯ぎしりをしていた。
「貴方は誰?」
姉が、違うんです。
性格が変わったみたいに明るくなって、人見知りもしなくなって。ただ、自分で変わろうって思っただけだとは思うんですけど……。
紬は心の中で否定した。
内気な女の子が急に明るく振舞い続ければ、心は悲鳴を上げるだろう。努力で上を向くことはできても、上を見続ければ肩が凝る。どこかで一息吐かないと、そう長く続けられるほど心は頑丈にできていない。
正月が過ぎ、学校に通い、大祭で巫女として環神楽を舞う。内気な真白は毎年、密やかに憂鬱な新年を迎えていたと、葵は小声で告げた。環神楽の稽古を休むことはなかったし、不安そうに何度も練習をしては、こっそりとため息を吐く。
まるで別人だ。
別人だったのだ。
由衣はそっと、贄の子の体を奪い、我が物にしようとしている幽霊の名前を暴いた。
「田中希衣さん、ですね」
環町の丘の麓は、瓦屋根に格子戸の門扉があるような、築年数に悲鳴を上げる家が建ち並ぶ。丘の上に行くに連れて新築や小綺麗にリフォームされた家が増え、果てのてっぺんに近付くほど高級住宅街の様相を呈す。頂点に住むのは環町の地主一家である宇衛家だ。地主だったのはもうずっと前で、今ではそのほとんどを手放しているらしいが、それでも宇衛家の権力は絶大なものだった。佐伯巡査はお伺いを立て、形ばかりの町長は媚び、宇衛家が外界に降りてくれば環町民は阿った。土地と人の結びつきは強固で、宇衛家は神事を司り、冬の大祭では宇衛家が矢面に立ち、華々しく儀式を執り行う。大祭の一番の目玉は巫女の環神楽だ。それは美しく、雅やかで、まるで天女のようなのだ。
大晦日の日。丘の麓の家に住む希衣は、半纏を羽織って炬燵で暖を取りながら勉強をしていた。父に買ってもらった、高校生用の問題集をテーブルの上に広げて、様々な問いの答えを知った。勉強は苦ではなかった。知れば知るほど、登山のように、丘の上に近付ける気がした。そして、丘の上に住む天女――宇衛真白が、希衣の目指す未来の理想の姿だった。
希衣は小学五年生。春には最高学年の六年生になる。真っ赤なランドセルを背負う自分は、高校生にはまだまだ遠くて、それだけに高校生が大人に見えていた。学校で時折見かける宇衛真白は、手足のほっそりとした、憂いを帯びた瞳が蠱惑的な人だった。その長くつややかな黒髪を、見かけるたびに目で追った。環町民に一目置かれる、美しい地主の娘。きっと宇衛真白にとっての環町は望月で、欠けることなどないのだろう。
希衣はあんな風になりたいと焦がれた。夢を掴むための努力は楽しかった。暇さえあれば問題集を開き、冬休みも大晦日も関係ない。希衣は未来の自分のために勉強に耽った。そうしていれば、丘の上に住む天女に近付けると思った。
そうして、大晦日の夜を迎えた。
その夜、年越しそばを食べた希衣たちは、神社で年を越そうと車に乗り込んだ。神社は歩けない距離ではないが、真冬の真夜中に風邪を引いたらことだ。母は歩くのを面倒くさがっていたし、希衣も眠たかった。
父が運転し、母は助手席に座った。希衣は後部座席に乗り込むと、お気に入りのウサギの人形を抱えて目を瞑った。年越しそばで腹が膨れていたからか、寒かったからか。眠気は数分もしない内に希衣を飲み込んだ。父と母が「渋滞を迂回しよう」と話していたのは覚えている。
次に気が付いた時には、体がなかった。
紬は訥々と語る希衣の泣き顔を眺めていた。
初詣。
混雑する大通りを避け、橋を渡った田中一家は、橋の老朽化が『隙』となり、交通事故で亡くなった。田中家の一人娘、希衣はとても賢くて天真爛漫な子で。紬は知らないけれど、言葉だけで聞かされた情報と、今の真白とは、確かに、重なる部分が不自然なほど多い。
希衣は雨脚が次第に強くなるように、ぽつり、ぽつりと心の内を吐露した。
「羨ましかったの」
あと何年で、高校生になれるだろう。
あと何年で、あの制服を着られるだろう。
あと何年で、丘の上に住めるだろう。
夢は描くだけで終わってしまった。もう届かない、何年先の未来が。希衣が喉から手が出るほど、叶えたい夢だった。猛進してきた努力は宙づりになって、やり場のない無念は執念に。希衣の魂は自我を保った。
そして『隙』は突かれたのだ。
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