ゴミ溜めと無菌室 -7-
***
葵が紬と約束をしていると家を出ていき、父と母は気を揉んでいた。真白はダイニングで蜜柑を剥きながら、付いて行けばよかったと後悔した。病院から帰ってきた時に取り乱してしまったのは自分のせいだ。分かってはいても、家を出てはいけないと監視の目が厳しいのはつまらなかった。
幽霊はもちろん怖いが、防災無線を聞いているうちに大丈夫だと思えてきたのだ。全ての幽霊が人間に危害を加えようと、虎視眈々と狙っているわけではない。目を合わせず、会話をしなければ、日常は戻ってくる。一晩布団の中で考えたら、朝には窓の外を覗く好奇心が勝った。
けれど父も母も、幽霊を異常に怖がっていた。雨戸を閉め、テレビには布をかけて画面を見えないようにし、電話線は抜いてしまっていた。鏡も片付けられ、昨日は風呂さえ一人で入れないから扉の前に立っていてくれと願われる始末だ。
真白は今日五個目の蜜柑を食べ終える。黄色くなった手をティッシュで拭って自室に戻ろうとすると「一人で大丈夫?」とすかさず母から声がかかる。真白はなあなあで返事をしながら自室の扉を閉めた。
せっかくの青春が台無しだ。高校生になって、通う学校こそ変わらないけれど、もっとキラキラした日々を送れると胸を輝かせていたのに。
どうして今年は本厄なんだろう。
せめて真白が社会人になってからならよかった。高校生活は三年間しかない。そのうちの一年が本厄で潰されてしまった。結界は壊れて幽霊だらけで、想像していた青春とは真逆だ。
真白はベッドにダイブすると、天井を仰いで起き上がった。
バレないように外出しよう。
大祭の焚火でテルたちは焼かれた。ずっとテルを気にかけていた樹は、今どうしているだろう。孤児院ではみんな泣いているかもしれない。家に籠っているよりも、孤児院でみんなを励ましたかった。
真白はリビングに降りると、寝るから部屋に入らないでと言い置いて二階へ上がるふりをした。玄関にはリビングを通らなければ行けない。父と母が廊下に背を向けた瞬間に忍び足で玄関まで走った。外に出てしまえば家にいるよりも息が吸える。
真白は揚々と孤児院へ向かった。
途中、幽霊はたくさんいたけれど、そのどれも病院で出くわしたものよりもずっと人間に似ていて、中には人間と見間違えるものもあった。
孤児院に着くと、真白はひとまず樹の部屋へ向かった。カンカンカンと鉄骨階段を上り、インターホンを押す。しばらく待っても応答がなかったので、もしやと思い扉を開けてみると、鍵はかかっていなかった。
「! なんだ、脅かすなよ……」
中では、前にコウキと呼ばれていた男子高生が、真白を見て緊張を解いた。
「霊が悪戯でインターホン押すから、誰かがいる時は鍵かけないようにしてんだ」
「そうなんだ、驚かせてごめんなさい」
「や、いいよ……」
コウキは真白をチラチラと伺い見る。
「樹さんはどこにいるか知ってる?」
「ああ、樹さん……一階じゃね。子守してると思う」
「そっか、ありがとう」
真白は一階の部屋を片っ端から覗こうとした。けれど左側の部屋は鍵がかかっている。小学生の男の子たちの部屋だ。全員いないことに違和感を覚えつつも、紬は隣の部屋に移動する。小学生の女の子たちの部屋、一階真ん中の扉を開けると、そこには全員集まっていた。樹と健吾もいる。
「宇衛。どうした」
樹が腰にしがみつく浩美の頭を撫でながら顔を上げる。目には隈ができ、泣いたのか目の端が赤くなっている。健吾は瞼を腫らしているし、よく見ると小学生の子たちはみんな涙で目を潤ませていた。
「みんな大丈夫かなと思って……辛かったよね、怖いよね」
みんなあの場にいたはずだ。大祭は一年で一番盛り上がる祭り。みんな胸を躍らせ焚火の前に集まっていたはずだ。
人が焦げる臭い。苦しみにもがき叫ぶ声。
忘れたくても克明に記憶に刻まれてしまった。目を瞑っても炎の明るさが瞼の奥にあって、目を開ければ彼らが幽霊として現れそうで。大人でさえ参っているのに、小学生が耐えられるわけがない。
何もできず、ただ人が死んでいくところをまざまざと見せつけられた無力感に、胸が苦しくなる。自分のせいじゃないと思っても、助けられなかった罪悪感に苛まれる。
真白は唇を嚙んで、溢れそうな涙を堪えた。
あの肝試しを止められていれば、テルたちは堕ち神に目を付けられることもなく、今を生きていた。樹も健吾も重々承知している。だから泣いた。無力感にではない。あと一歩、手を伸ばしきれなかった悔しさ。
真白に泣く資格はない。
真白は大きく息を吸うと笑んで見せた。浩美が目を大きく見開いて真白を見上げる。
「加見さんはいないみたいだけど、どこに行ったの?」
真白が尋ねると、樹が顎で扉を指す。
「さっき警察と出かけてった」
「佐伯さん?」
「もいた。他にも三人」
なあ、と樹は健吾に呼びかける。
「おう。扉から覗いただけだから何喋ってるかは分からなかったけどな。物々しい雰囲気だった」
「そっか……」
結局、大祭の時から加見に会えていない。
「加見さん大丈夫そうだった?」
祝詞奏上でも神様への感謝と共に、盟約を口にしている。
環大神よ、永く此の地を守り給へ。
結界が機能しなくなり、堕ち神どころか幽霊すら溢れ返った環町で、守り神は何を思っているのだろう。堕ち神は呪いが跳ね返って堕ちた。環大神が人間との契約を反故にしたと捉えられ、力を失ったらどうしよう。
「んな深刻な顔しなくても、加見さんはいつも通りだ」
大丈夫、大丈夫。樹は呪文のように唱えながら、浩美にするみたいに真白の頭を撫でる。その手は思ったよりも大きくて、真白は目を瞬かせる。
「……その、テル君たちのことは本当に」
樹の手がだらりと垂れる。
「少ししか遺らなかった。あいつらが生きてた証がさ、全部燃えて、骨もすげえちっさくて」
真白は絶句する。
「大祭、楽しみにしてたんだ。片っ端から屋台回ろうぜって話してんの聞いててさ。……せめて、全部回れてたらって、思うよな」
浩美がまたグズグズと泣き始める。はっとした樹は、浩美に視線を合わせてしゃがみ「ごめんな」と声を震わせて謝った。
真白の携帯が鳴る。見ると、葵からメールが一件入っていた。
『ババにきて』
短い文章からは何も読み取れない。けれど葵は本当に必要なことしか言わない。
真白は用事ができたと謝って孤児院を後にし、ババへ急いだ。
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