ゴミ溜めと無菌室 -6-


 けれど葵は目の前にいた。

 目の前で困っていた。

 紬は声をかけようとして、寸でのところで言葉を呑み込む。


 欲シイ


 いびつな笑顔。前と後ろに顔があり、眼窩から零れ落ちそうな眼球は葵と、そして後ろにいる紬を見つめる。柳の木のように細い腕は地面に届くほど長く、目を瞑って顔をそらす葵を、至近距離で眺めている。


 欲シイ


 何を――葵を。

 神に見初められた体を。


 欲シイ


 目が合えば。言葉を発すれば。


 盗レルノニ


 葵の前に立ちふさがる幽霊。葵が半歩横にずれれば自身も移動し、頑なにババへの道を開けない。

 紬はどうしよう、と立ち竦んだ。手を引いて逃げられればいいが、体を欲しがっている幽霊をすり抜けて、ババに強引に連れて行っていいのか。それともここは紬が囮になり、幽霊から葵を引きはがすべきか。恐らく、葵は長年御霊を体に宿していたため、憑きやすい霊媒体質になっている。それならばまだ、標的が紬になるだけでもましなのではないか。最悪幽霊が体に入ってきても、由衣や園寺が放ってはおかない。紬は決死の覚悟で顔を上げ、幽霊と目を合わそうとして――その奥に揺らぐ、見知った姿を見つけた。


「! 由衣さん!」

 幽霊が頭をもたげ、鉄道橋の先を見る。

 ゆっくりと歩んでくる、ブラウンのスリーピーススーツ姿。あの日と何も変わらない。手を振る紬に小さく振り返した大きな手。

 鉄道橋を潜り、結界の内側へ招かれた由衣は、葵の脇を通って幽霊の身体をすり抜け、紬の前に立った。入り日影が由衣を濃く浮かび上がらせる。


「久しぶりだね。元気そうでよかった」

「由衣さんー……会いたかったです、よかった……」

「ああ、泣かせてしまったかな、すまない」

 紬は歪んだ視界の中にいる由衣を目に焼き付けた。優しく、強く、紬の味方。

 葵がぽつりと呟く。

「いなくなった……」


 その言葉に、やっと紬は幽霊がいなくなっていることに気付く。由衣はそれを不思議そうに眺めると、立ち竦んでいる葵に目線を合わせる。

「こんにちは、前に一回会ったよね。いつも紬君をありがとう」

「いえ……僕も、助かりました。ありがとうございます」

 紬はババに由衣も呼んで、そうだ、と園寺にも連絡を入れておく。

「一時間前の到着でしたね」

「ああ、私も予定よりも早いからどうしようかと思っていたんだ。ここで会えてよかったよ」


 紬は好都合だと葵に目で合図をし、ババを指差した。

「由衣さんに聞いてほしい話が山ほどあるんです。探偵の由衣さんに」

「ふむ、それは興味深い」

 ババはカウンターからソファ席に移動して、紬はこれまでのいきさつを事細かに説明した。御霊の消失も、大祭に現れた堕ち神も、結界の破綻も。由衣には伝えなければならないことが山ほどある。


 紬は一通り話し終えると由衣の顔色を眺める。由衣はブラックコーヒーを眺めながら、黒い水面に映る天井の照明を見つめていた。ゆらゆら揺らめく仄かな電球。沈黙に乗ったジャズを聴きながら、紬は葵に問うた。

「贄の子に心当たりはない?」

「僕も、御霊と探してたんですけど見つけられなくて」


 葵は視線を彷徨わせて声を落とす。

「でも、御霊が言ってたんです。今年の贄の子は何かがおかしい……って」

「どういうこと?」

「贄の子は今、神界にいるんです。眠っているって言うのかな……名前を呼ぶのはその人を起こすって感覚らしいんですけど。今年の贄の子は『いるのにいないみたい』だって」

「……? すごく静かな子、とか?」

「違うと思いますけど、どうなんだろう……」


 詳しく聞こうにも御霊はいない。余計に謎が深まった気がして紬は肩を落とす。

 ふと顔を上げた由衣が優しく言葉を置く。

「これは恐らく、単純な話ではないのだろうね。本厄の年に贄の子が見つからない……十分に『隙』たり得る」

「! 堕ち神の仕業ってことですか」

「直接手を下したのか、場を整えたのか、はたまた偶然に乗ったのか……」


 由衣は膝に腕を乗せて前のめりになると、葵と目を合わせた。前髪がひと房垂れる。

「新年を迎えてから、変わったことはないかい? 前年と少し違うという些細な違和感でもいい。何か思い出せないかな」

「何か、違う――」

 葵は考え込んで、ホットココアを見つめる。紬は葵が考えている間、由衣に見とれていると、知的な眼差しに見つめ返された。擽ったい幸せに口が緩む。


「あの、本当に関係ないことかもしれないんですけど……」

 葵は躊躇いながら告げた。その答えを聞いた由衣は、優雅に足を組んで笑んだ。

「それは面白いね」

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