ゴミ溜めと無菌室 -2-


 真白は家に着くと、紬にしきりにお礼を言ってから「ちょっと待っててください」と言って家の中に入ってしまった。手持ち無沙汰に待っていると、代わりに出てきたのは葵だった。

「葵君。大丈夫?」

 灰色のセーターに暖かそうなコールテンのズボンを履いている。長い袖は指先まで覆い、もじもじと握っては開いてを繰り返している手がいじらしく可愛い。葵は鼻を啜りながら吟味するように紬を眺め、ぽつりと呟いた。


「もう知ってるの?」

「御霊のことと、大祭で何が遭ったかは真白ちゃんから聞いてる。大変だったね」

「そう……」

 葵は出会った時からポーカーフェイスな子だった。今も辛いことが重なっているだろうに、真白ほど取り乱している様子はない。が、紬は薄々勘付いていた。何も悟らせない仮面、その奥にある深海の青さ。涙が出なくなっても、抉れた深さは埋まらないし月日と共に荒涼としていく。その穴と折り合いをつけられるか否か――人は二つに分かれる。葵はきっと、紬と同じタイプなのだ。


 葵は言うべき言葉を見つけられずに黙り込んでいる。紬は沈黙を破る会話を探しながら、あれはどうかな、と人差し指を立てた。

「葵君。明日、ババのプリン食べに行かない?」

「――え」

「この間も行ったけど。美味しかったしさ、また。どうかな?」

「行きます」

 御霊を思い出す行動は避けるべきかとも迷ったが、葵の即答に紬は胸をなでおろした。


 真白は大きな紙袋を抱えて出てきた。

「こんなものしかなかったんですけど、もらってください。幽霊から守ってくれてありがとうございました」

 受け取った紙袋は案外軽い。中を覗くとスナック菓子がたくさん入っていた。

「ありがとう。幽霊は慣れだからね。役に立ててよかった」

 紬は明日の正午に約束を取り付け、宇衛の家に背を向ける。一人で歩いていると、本当に環町に来る前に戻ったみたいだった。



『――こちらは環町警察署、および環神様からお知らせします』



 妙に間延びする、聞き取り難いのっぺりとした声。防災無線だ。紬は顔を上げずに病院までの道を急ぎながら耳を澄ませる。

 環神様とは加見のことだろう。今日は姿を見かけなかったが、環町の人たちと事態の収拾に奔走していたらしい。神様といえど余力がない。きっとそこに駐在の佐伯もいて、指揮は園寺が執っている。



『幽霊が出現しています。目を合わせず、会話をしないようにしましょう。一人での行動を避け、暗くなる前に家に帰りましょう。危険を感じた方は環町警察署までご連絡ください』



 最早、隙を埋める段階ではない。

 ほとんどの幽霊は明確な悪意ではなく、記憶の残滓だ。こちら側が接触しない限り悪さはしてこない。けれど幽霊を知らない老若男女が慌てふためくさまは十二分に想像がつく。幽霊の出現から間もなく、防災無線が流れるほどひっ迫しているのだ。

 なぜか誰ともすれ違わない坂。後ろから肩を叩かれているが、振り向いてはけない。

 病院は笑ってしまうほど黒い空気に包まれていた。紬は中には入らず、園寺に電話をかける。


『もしもし?』

「今病院着いたんですけど、もう退院の手続きは終わりましたか?」

『あー、うん、もう終わる。みんな幽霊にちょっと動揺しててさ、時間かかってて。紬ちゃんは危ないし外で待ってな』

「分かりました」

 それもそうだ。紬は誘引剤でも被っているのかというほど幽霊を招きやすい。これまで抑えられていたこの土地の幽霊は、今までの隆盛を巻き返さんとばかりに色が濃い。この色が落ち着くまでは、迂闊に出歩くべきではない。


 園寺の危惧する通り、甘い蜜を纏った紬が病院のあの暗がりに突っ込むのは、単純に危険だ。

 それに園寺なら大丈夫だと、紬は確信している。幽霊の存在を知っていて、それでも躱してきている人だから。

 紬の予想通り、園寺は飄々と病院から出てきた。頭に巻いた包帯は痛々しいが、足どりはしっかりしている。大祭の夜に着ていた警察のジャンパーを片手に持った園寺は、一泊分の準備すらしていない軽装だ。それもそのはず、園寺は怪我さえしなければ環町には留まらなかった。隣にいるのが由衣でないのは悲しいが、園寺は頼りになる男だ。幽霊に溢れたこの町で一人にならなくてよかった。


「旅館も幽霊いるんですかね」

 旅館への帰り道に何気なく呟いたが、紬は嫌な確信を持った。和室に幽霊がいないところなど想像できない。

 畳の隅の暗がり。少しだけ開いた押し入れの中。障子に映る影。人の顔をした木目。思いつく度に憂鬱になって足取りは重くなる。

 そして紬の予想は予知だった。


 女将は紬を見るなりパタパタとやってきて、青ざめた顔で「すみません」と頭を下げた。

「ご宿泊の人数を変更されるとのことで、もう一組のお布団をお部屋へお持ちした時に、その……」

「あ、やっぱりいたんですか」

「今回の騒動、私どもは何せ初めてのことで動揺してしまって。お部屋の準備が整っていないのです。それに、お部屋の状態をご覧になってから、連泊されるかお決めいただいたほうがよろしいのではという状況で……」


 そうとう悲惨な状態らしい。

 ロビーのソファに荷物を抱えて座っている宿泊客がざっと五組はいる。憔悴した顔で「帰りたいから迎えに来てくれ」と大声で電話をしている人の声が響き、殺伐とした空気だ。

「あの人たちは?」

「お部屋の状況に耐えられないと、今晩はロビーでお眠りになるとのことです」

 紬と園寺は促されるままに客室へと案内された。その道すがら、紬は小声で「どうします?」と尋ねた。


「どこも幽霊だらけだから、全部嫌がってたら野宿だぜ。それこそ神様に怒られちまうだろ」

「ロビーで寝る手もなしですか?」

「俺は御免だね」

 あそこ空気悪いし、と園寺はぼそりと呟く。確かに機嫌の悪い人の中に埋もれたら、それだけで些細なことに目くじらを立ててしまいそうだ。

 でも、そうすると残されるのは……。


 女将が客室の前で扉を開けて待っている。園寺が一番に部屋の中へと入った。

「おー、すげ」

 園寺が驚いているのは、紬がもう何日も敷きっぱなしにしているくしゃくしゃの布団に、ではない。紬はそっと園寺の後に続く。

 まず、部屋の真ん中に青白い顔の男の子が正座をしていた。広縁の障子の破けた個所――最後に見たときは破けていなかった――から女がこちらを見ている。窓硝子には怒った男の顔が反射しており、押し入れは想像通り少しだけ開いている。幽霊の数を数えただけでこの客室はとっくに定員オーバーである。


「……ご宿泊、されますか?」

 女将は恐る恐る、部屋へ入ってきた。

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