第五章
ゴミ溜めと無菌室 -1-
***
「……結局、加見さんはどこにいたんですか」
胡乱な目つきで真白が問う。紬は「私たちのところに」とだけ返した。
「……紬さんたちはあの時どこに? 何かあったんですか?」
真白は園寺を知らない。紬は園寺に視線を送る。話してやれ、と顎をしゃくるのを確認し、境界線の際で――恐らく同時刻に起きた堕ち神の襲撃を掻い摘んで話した。
真白は目の前で人が燃えるのを目撃した。五人が亡くなった現場だ。凄惨だっただろう。結果としては紬たちのいた場所では、負傷者は一名に留まったが……。
紬は思い出して身震いをする。
あの後、治りかけていたはずの足首にくっきりと手形が現れていた。広場の方で悲鳴が上がったのと同時に、紬も引っ張られたのだ。あれは――焚火へと誘われていたのか。
加見がいたから助かった。けれど環神楽も祝詞奏上も、紬が加見を呼んだから、加見は祭りから離れてしまった。
「ごめんね……私が加見さんを呼んだからだ」
「……理由があったなら……」
ちっとも納得のいっていない顔をしているが、真白はため息を吐くと膝に手を当てて立ち上がった。
「園寺……さん? 警察の偉い人なんですね。堕ち神を逮捕するんですか?」
「俺らは人間しか罪に問えない。残念だけど」
園寺は素っ気なく言い、スプーンをゴミ箱に投げるとベッドに横になった。
真白はもの言いたげな視線で園寺を見ていたが、やがて諦めて「帰ります」と言い残し、病室を出て行った。紬はゆっくり閉まる扉を眺める。
「……加見さん、呼んできましょうか」
「明日でいいよ。俺、無理しない主義だから。今日は退院したらまっすぐ……」
園寺は窓の外を眺めながら言いかけて、しかめっ面になる。
「紬ちゃんが泊まってる、環町旅館、だっけ? 一人追加で女将さんに相談を」
「え、私の部屋ですか? 別にもう一室取れば……空いてますよ、多分」
「……うーん。窓の外、見てみ」
歯切れの悪い言い方だ。園寺のベッドは窓際に寄せてあり、確かに眺望はいいが……もう何晩も泊まっている紬の方が環町には詳しい。
それとも何か見えたのだろうか。救急車のサイレンは聞こえないけれど、と考えてすぐに思い直す。横になっている園寺が窓を向いたところで、空しか見えないはず。
いまいち釈然としないまま、紬は窓の下を覗こうとして、
目の前を、何かが通り過ぎた。
冬にしてはまだ早いけど、燕かな……と考えてすぐに嫌な違和感に気付く。
――リフレイン。
そんな、まさか。紬の喉が悲鳴を呑み込んで震える。信じたくないのに、身体に刻み込まれた重たい予感は、考えるよりも先に答えに辿り着く。紬はふらついてベッドの手すりに掴まった。愕然と窓の先を眺める。
また見えた。今度はちゃんと。
人が落ちた。目が合った。
恨みを振り切った狂気的な黒い目。
――幽霊だ。
ごくりと唾を飲む。悲しいことに、見慣れたそれは恐ろしく懐かしい。心の底に降り積もる灰色の絶望だ。
廊下から、真白の悲鳴が聞こえた。
紬は急いで扉を開けて真白の名前を呼ぶ。真白は曲がり角の手前で地面に座り込み、紬に助けを求める視線を寄こした。薄暗い廊下は弱々しい照明が明滅し、小さな思念が埃のように舞う。
「つ、紬さ……なに、これ……」
真白は見たことがないのだ。環町の人たちは誰も。真白の目の前に現れた幽霊は、紬が見ても息を飲む姿をしていた。
白粉を塗ったような真っ白な顔。裂けた唇からは血が滴り、眼窩は黒く渦巻いている。ざんばらな髪はなぜか逆立ち、身長も二メートルは越しそうな巨体。
目を合わせてはいけない。それは会話となり、幽霊とコネクトする手段となりうる。
紬は真白を立たせると、園寺の病室まで手を引っ張って走った。病室に入ると扉を急いで締め、念のために鍵をかけ、やっと息を吐く。
「……はあっ、大丈夫だった?」
「な、なんなんですか、今の……」
真白は今見たものが信じられないと首を振る。
「幽霊だよ。さっき見たのは特に見た目が怖かったけど」
「怖いなんてもんじゃ……」
真白は言葉を失って両腕を抱えた。紬も幼い頃は幽霊を見るたびにショックを受けていた。今日は初めてだったから真白もトラウマだと感じるかもしれないが、何日も、何年も、何体も、何十体も……見続ければ、恐怖もやがて諦める。
紬は真白を家まで送って行くことにした。遭遇すると怖い場所ナンバーワンが病院だと思っている。真白の幽霊体験デビューが病院スタートなのは可哀想だ。
真白を送り届けて病院に戻った頃には、園寺も退院の時間になっているだろう。
「園寺さん、真白ちゃんを送ってきますね」
紬が言い置くと、おう、とだけ悠然な返事が返ってきた。
「怖かったら目、瞑ってていいよ」
「はい……ありがとうございます」
病院の薄暗い廊下。なぜか明滅する蛍光灯と、やけに濃く伸びる、曲がり角にいる誰かの影。息を吸うだけで憂鬱になりそうな湿った空間。真白は恐怖を往なしきれず、はた目から見ても分かるほどに震えている。
……さ、行こう。
案外冷静な自分が内心可笑しかった。あれほど嫌いで、嫌な思いをたくさんさせられてきた幽霊に対して、ほんの少しだけ、雀の涙分だけ。「おかえり」と声をかけたくなる自分がいた。
濃い影の幽霊の脇を通り過ぎ、やけに長い階段を下り切り、裸足で歩く子供とすれ違い、病院を出る。
紬は霊感が人より強い。霊感がある人たちと比べても取り分け強い。
空を見上げると、雪雲が低く垂れこめていて、夕方にはまだ早いのに既に街灯が点き始めるほど薄暗かった。真白が薄目を開け、病院から出たのを確認して安堵の息を漏らしている。
ゴミ溜めで過ごしてきた紬にとって、環町は無菌室だった。
丘の坂を上る最中ですら、人に化けた幽霊が嗤い、大男が紬の前に立ちふさがる。紬のよく知る世界。環町の結界は破綻したのだ。
明るく清潔で理想的とまで思える場所だった環町。昨日までの静かな町に、けれど不思議と戻りたいとは思わない。紬は心の隅で物足りなさを感じていた。幽霊のいる日常が恋しかった。
とはいえ、霊感のない園寺が、あのリフレインに気付いた。今まで保ってきた日常が瓦解する――それが恐ろしかった。
環町にいるということは、霊感があるということ。環町に入れるようになったということは、霊感を持ってしまったということ。堕ち神に怪我をさせられて、後天的に霊感が開花した。
紬はそう無理やり納得して、肺いっぱいに淀んだ空気を吸い込んだ。
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