第四章

大祭の環神楽 -1-


 紬はいつも寝ている時間帯に、目覚ましよりも先にしつこい着信で起こされた。布団のぬくもりが逃げないよう、そうっと伸ばした腕に、瞬間、冷気が纏わりつく。空気の冷たさに目を閉じたまま、さっと携帯に手を伸ばすと布団の中に引きずり込んだ。薄目を開けて、眩しい画面の相手を確認すると園寺だった。

「…………もしもし」

『お、起きれた? 偉いじゃん』


 上機嫌な園寺の声がやけに大きく聞こえる。紬はさらに布団の中心に蹲ると、携帯を伏せたまま、羊水のように居心地のいい暗闇の中で話を聞いた。

『いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?』

「どっちでも……」

『そう。じゃ、いいニュースから。俺が環町に行くことになった』

「……それ、いいニュースですか?」


 紬は寝起きの枯れた声で呻く。園寺は紬の反応を面白がって笑った。

 由衣が来られるのならまだしも……というか、園寺にも霊感はないはず。遅れてやってきた疑問に答えるかのように、園寺が明かす。

『正確には境界線のところまでな。今日の夜から環町は大祭だろ? いかにも堕ち神が何か仕掛けてきそうじゃん。だからこないだ言ってた神社の裏に周ろうと思ってさ。駐在の佐伯とも積もる話が山ほどあるし? あと紬ちゃんの顔色を見にね』


「? 駐在って……園寺さん、環町の人と連絡とってるんですか?」

『同じ組織の人間だ、連絡くらい取るさ。それに今回の本厄対策にいろいろ力貸してやってんだ』

「あ、そっか……香々美さんの件だけじゃないんでしたね」

 加見が話していた前回の本厄の災害を思い出す。洪水や老朽化した建物の倒壊――「隙」は人間の心だけではない。


 そうだった。そもそも園寺は、環町で起こるかもしれない事件を、未然に防ぐために動いているのだ。由衣探偵事務所への依頼もその一つ。

『環町の陣頭指揮は俺だから。あらゆる隙を摘ませるのも俺の仕事ってわけよ。前回の本厄を知ってる環町のお偉いさんは積極的だし、今のところ問題はないね』

「園寺さん、いつも暇そうに見えるけど実は忙しいですよね」

 環町の事件は紬に任せきりなのかと思っていた。園寺はいつも飄々と人の倍をこなすから努力が見えにくいが、実際は誰よりも仕事に真摯に取り組んでいる。


『褒めてんだか貶してんだか……ま、いいや。それから悪いニュースな、椚原武人が逃げた』

 温かい暗闇に甘えていた紬は思わず目を開けた。

「なんで?」

 逃げる理由はないはず。霊感がないから環町には来られないし、容疑者として疑われていないのは本人も分かっていた。ここで目立つ行動をすれば、むしろ疑いの目が自分に向くのでは、と思い浮かばない浅慮な人でもないだろう。


『元々保護したのも精神状況を鑑みてだったしな。俺たちも四六時中一緒にいたわけじゃねぇし、椚原武人は家に閉じこもってた。が、昨晩からどうも様子がおかしくってさ、見張ってた奴らに夜通しの監視――あ、警護か――を任せたら、この予感がビンゴ』

 何が面白いのか、声の端から笑いが滲んでいる。賢い園寺にとっては、椚原武人の脱走は盤上で駒が動いているようなものなのだろう。チェスにおいて園寺は負けなしだ。


『十中八九、環町の大祭が狙いだ。ま、神社の境界線に来るだろうと踏んでる』

「それで園寺さんも来るんですか」

『用事は山ほどあるんだよ。何せ現場がそっちだしな』

「……それなら、由衣さんも来られないんでしょうか」

『彼奴は駄目だ。何、やっぱ由衣がいないと覇気が出ない?』

「そりゃあそうですよ。この間雪降った時なんか本当にしんどくて。でも、約束してくれたんです。十八日になったら帰ってもいいって」


 雪が降った日、どうしようもなくなった半泣きの紬は無理にでも約束をこじつけた。十八日、残り三日で環町の事件が解決するかは分からない。今のペースで行ったら無理かと思う。けれどそれは紬を縛る事件ではない。堕ち神が紬を襲う可能性は高く、想像するだけで足は竦むが。境界線を越えた瞬間に何が起こるのかは、試してみなければ分からない。もしかしたら堕ち神が間違いに気づいて、紬を見逃すかもしれない。

 その可能性に賭けてやってみるしかない。


 園寺は懊悩した声で尋ねた。

『危ないだろ、由衣が言い出したのか?』

「私がもう帰りたいって言ったから……大丈夫、出る時はちゃんと気を付けます」

『いや、……あー、まあいい。とにかく、そっち着く頃になったら連絡するから』

 紬の返事を聞く前に、園寺は通話を切る。紬は暗い布団の中で目を瞑って園寺の言葉を反芻した。


 この三日間はひたすら悶々としていた。園寺からの依頼は「できるだけ、起きるかもしれない事件を未然に防ぐこと」と「起きた事件の対処」だ。椚原香々美の件は事故で処理するとなれば、紬ができることは一つに絞られる。事件を未然に防ぐ――つまり「隙」を埋めること。

 けれどこの三日間「隙」と呼べるものは見つからなかった。既に園寺の手配で現地の警察が大きな「隙」は埋めている。学校裏の河川工事は紬も見に行った。面倒だったので警察と話はしていないが、要するにやっていることは紬と同じだ。そして紬が見つけられるような、警察の目を逃れた「隙」はそう見つかるものではない。


 今日も「隙」探しか……。

 紬は重たい溜息を吐く。目が覚めたらまた一人だ。だったらこの暗闇で、夢の中へ溶けてしまいたかった。夢でなら由衣に会えるのだ。だから、もう少しだけ……。紬は意識を手放し、夢の世界へ逃げた。

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