「隙」を埋める -11-


 肝試し当日の放課後、樹は真白の教室まで訪れて「テルは止められなかった」と謝りに来た。

 白足袋は思ったよりも滑る。

 真白は鈴の束をシャンシャンと鳴らしながら、神楽殿の滑る床でぴたりと止まる練習をしていた。寒さ対策で足袋を二枚重ねにして履いていると、床の感触を足の裏で感じ難い。気を抜くとするりと滑ってしまう。鈴は些細な動きすら拾い、音を鳴らす。なかなかどうして、舞だけならいざ知らず、嫋やかな所作に苦戦する。


 集中、集中――真白が力むほど、鈴は可笑しいと笑った。

 ちらりと木々の群れる境界線の方へ目をやる。

 真白と葵は毎年、大祭の前日は学校を休んで練習に励むのだが……。

「……来ないといいけど」

 正午を過ぎて午後二時。これから学校が終わり、暗くなる。もしも闇に紛れてテルが来てしまったら。


 真白は生まれてこの方、幽霊など見たことがなかった。本厄と言われても、実際に事故が起きたのだと言われても。得体の知れない堕ち神は曖昧模糊な存在だった。

 心から震える恐怖は初めてだった。

 真白は占い婆の降霊術を思い出してしまい、シャンシャンと身震いする。

 あの日、まざまざと目の当たりにした異質な悪意。言葉の通じない環の外の脅威は、寸分のためらいもなく紬の首を絞めた。占い婆はいつも、目じりにくしゃりと皺を寄せて笑っていた。けれどあの時、今までに見たことのない笑い方をした占い婆に、真白は思い知らされた。


 テルはそれを知らない。反抗心だけで森に行けば、もしもそこで堕ち神が待ち構えていたら。命すら危ういということを。

 陽が明るいうちは大人が神社を行ったり来たりしている。明日の大祭に出店する屋台のおじさんや、運営のパーカーを着た役員、環町の警察……。真白は座り込んで人々の動きを眺めていると、葵がすぐさま飛んできた。


「暇ならこっちの練習付き合ってよ」

「あー、うん」

 葵は休憩という言葉を知らないらしい。真白は鈴を転がしたまま神楽殿から降りた。

 時間は刻々と過ぎて行く。葵はテルのことを知っているはずだったが、真白ほど気を揉んではいなかった。準備を終えた大人たちは段々と疎らになり、空は青さを増す。薄い水色に一滴ずつ藍色の絵の具を溶かし込むみたいに混じり合い、提灯が点灯されて初めて、既に夕暮れの深い時にいると気付く。


「大丈夫かな……」

 木々の向こうに目を凝らしても、既に闇に呑まれている。人がいるかどうかは遠目では分からない。大祭は日没から夜明けまで。明日に備えて前日の練習は夕暮れの終わりとともに切り上げられ、真白と葵は「早く寝なさい」と家に帰された。

 真白は自室でぼんやりと窓の外を眺める。定刻通りに列車は流れ、前照灯が環町の結界をなぞって夜に線を描く。いつもと変わらない夜。そう思いたいけれど、真白は知っている。


 災厄は、不幸は、突然やってくるのだ。

 真白は暖かい格好に着替え、そっと家を抜け出した。音を立てないように鍵をかけ、家が寝静まったままなのを確認して背を向ける。冷たく鋭い冬の夜の空気は、家のぬくもりに微睡んでいた身体をぴしゃりと起こす。目が冴えた真白は神社へと走った。指先は瞬く間に冷え、鼻の頭と耳が寒さに呻く。吐く息の白さが行く手を阻む靄みたいで、気が急いてもどかしかった。丘を下り、アーケードを駆け抜けて、学校を通り過ぎる。暗闇に沈んだ神社からは声が聞こえていた。


 やっぱりいるんだ。

 心臓がドクンと軋む。

 夜の影に煤けた神社は迫力もひとしおで、真白は恐怖心を抑え込んで鳥居を潜る。神楽殿の広場から境界線に隣接する木々の中。樹と健吾、そしてテルの言い争う声がする。

 真白が現場に辿り着くと、テルはほかにも三人の友人を連れてきていた。みんな樹と健吾の迫力に声を出せないでいるが、テルだけは噛み付いて吠えている。


「付いてくんな!」

 テルが真白を見つけて怒髪天を衝く。

「帰れよ!」

 テルの怒りには切実さすら感じる。これは本当に放っておいた方がいいのでは……。

 樹を諭そうとした真白はごくりと唾を飲み込んだ。天から遣わされたような月夜に輝く白金。冴え冴えとした慧眼がテルを射る。


「樹さん、あんまり責めない方が」

「来たのか」

 無表情に真白を一瞥する。樹は保護者で孤児院をまとめるリーダーだ。そのためには、優しいだけではいられない。時に冷徹になってでも、間違えを起こす子供を諫めなくてはならない。真白は改めて樹を観察する。無表情はどこまでも透明だ。健吾は一切口出しをせず、腕を組んで事の成り行きを監視している。テルはじりじりと後退り、脱兎のごとく逃げ出した。

「! テル」


 樹の静止も聞かず、竹の柵を越えて線路に出る。テルの仲間も後ろ姿に続き、「クソ」と歯ぎしりをした樹は健吾に続いて境界線に走った。けれど二人が線路を越える前に、定刻の列車がゴウゴウと通り過ぎる。その隙に境界線を越えたテルたち四人は、勝ち誇った笑みを見せた。

 その後ろに、ぞわりと、真白は感じた。樹と健吾も立ち竦む。


 黒い靄――いや、焼け焦げた……。

 着物の裾。

「テル君、後ろ!」

 真白はたまらず叫ぶ。


 占い婆の館で見た、ロウソクの炎が脳裏をよぎる。不自然な笑みと、サエの最期が重なる。

 あそこにいるのは。

 サエの姿を模した堕ち神か。

 鬼気迫る真白の声に、テルは振り向いて絶叫した。四人は急いで結界の内側へ戻ろうと走るが、黒焦げの袖が瞬く間に四人を抱え込む。


 樹が飛び出そうとして健吾に腕を掴まれる。

「手遅れだろ、巻き込まれるぞ」

「んなの分かんねぇだろ!」

「分かるだろ、冷静になれよ」

 健吾の強い声に樹がぐっと踏みとどまる。


 もう……助からない?

 真白は竹の柵を越える。境界線の一歩手前で立ち止まり、四人を見ようと目を凝らした。黒い袖で覆われている四人は目の前にいるはずなのにまるで姿が見えず、ただ四人のくぐもった呻き声だけが結界の内側まで届く。堕ち神がサエを呪った怒りは、まだ煮え滾っている。


 手を伸ばすことすらできない。真白は恐ろしくて手を握った。爪が食い込む痛みも慰めにはならなくて、焦燥感は涙となる。じわりと滲んだ視界が疎ましく、真白は乱暴に涙をぬぐった。手を伸ばせなくても、一秒たりとも目を離したくない。

 考え続けなきゃ。どうにかまだ彼らを救える手立てがあるはず――。


 真白が必死に堕ち神の「隙」を探していると、腕に誰かの手が触れた。

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