「隙」を埋める -2-
***
「え、怖。何ですかそれ?」
『私もさすがに声をかけられなくて、その足で帰ってきてしまった。異常だったんだ、あの場においては『踊り』は狂気と同義語だった。井守村の人たちは堕ち神に襲われれば、環町に保護されると目論んでいたんだとは思うけど……捨て鉢だ。老体に鞭打って自身を危険に晒すなんて』
「普通におかしいですよ。由衣さんが無事でよかったです」
『ありがとう。私こそ昨晩は連絡もできずにすまなかった。大丈夫だったかい?』
「私は大丈夫ではあったんですけど、心配だから急に音信不通になるのはもう嫌ですよ。……で、昨日はどこまで聞いてました?」
『占い婆のところで昔の井守村の話をしていたよね。それから加見という神様に会いに行こうとしてたところまで……紬君、神様には会えたかい?』
紬は広縁で淹れたての緑茶を飲みながら、まんじゅうを頬張った。早起きをして朝食を食べてから朝風呂をし、少しだけ窓を開けて涼んでいたところだった。
「昨日は会えませんでした。なんか家を訪ねたんですけどいなくて。今日もう一回行ってみるんです。で、昨日は葵君おすすめのババプリンを食べました」
『美味しかったかい?』
「はい! 昔ながらの濃くて固いプリンでした。食べ応えがあっていいですよね。お腹に溜まるし、食べてる! って感じで好きです」
『今度私も食べたいな。紬君がこっちに帰ってきたらいい店を探そう』
「そうですね、私も由衣さんと食べたいです」
テイクアウトはできたっけ、と紬が思い出していると、通話の画面に招待リクエストで園寺の名前が出てきた。
「園寺さんだ」
警察側でも何か進展があったのだろうか。結局、昨日は由衣との通話が途切れたのもあって、園寺には占い婆での話はしていない。ちょうどいいや、と紬は「許可」のボタンを押した。
『おう、元気か?』
「いい感じですよ。由衣さんは大変だったみたいですけど」
『あれは……何だったんだろうね。奇妙な慣習を見てしまった』
『へー? 面白そうじゃん。昨日からの状況報告と行こうか』
園寺が言ったのを皮切りに、まずは紬が占い婆の昔話を、それから由衣が井守村の真夜中の奇習を話した。園寺は紬の話には特段驚いてはいなかったが、由衣の話には酷く落ち込んだような驚き方をしていた。
『まじか……あー、どうすっかな……』
園寺がここまで呻くのも珍しい。
「あ、それと忘れてました。女将さんにサエという名前に聞き覚えがないか聞いたんですけど、その名前を言ったら女将さんが思い出したんです。香々美さんは「初詣に行く」と言ったんじゃなくて「サエに会いに行く」って言ってたんだって」
『あー、なるほど。けど結局、目的地は神社……からの祠だな。道草はしなかったのか』
「みたいですね。まあ、あれだけ派手な着物を着てたんです、目撃証言聞くときもみんな鮮明に覚えてて楽でした」
『ううん……こっちでの進展も話しとくか。椚原香々美の件な、彼女の知り合いには全員アリバイ確認をしたが、誰にも犯行は不可能だった。武人さんもだ。辺りでの聞き込み……っつってもあんなとこ誰もいねぇし、関所の爺さんにしか聞けなかったけど、不審者情報もなし。で、紬ちゃんが昨日教えてくれた環町での香々美さんの足取りからも察するに……結論は昨日と変わんねぇな。不可解だが事故死で処理する』
「自殺の線は消えましたか」
『遺留品に可燃性のものも、使われた形跡もない。堕ち神の仕業では通せねーしさ、自然発火だろうなぁ』
『武人さんには不服の結果だろう。せめて彼には堕ち神の話をしてあげた方がいいかもしれないね』
『そうなんだけどさぁ。証拠がねぇとどうにもな』
「幽霊に証拠なんかないですもんね」
前回請け負った事件では犯人に霊感があったため自白させられたが、武人さんは環町に入れない、霊感がない人だ。大切な人を殺めたのは幽霊ですと言われて、納得できるはずもない。それに武人さんが怒って「警察が幽霊だと言った」などと喧伝されれば、園寺の好意は台無しになる。
紬も園寺と悩んでいると、真白からメッセージが届いた。どうやら今日は短縮授業だったらしい。もう出かけられるかとの問いに返事をしながら、紬は急いで着替えた。
「これから神様に会いに行くんです」
『俺の出世でも願っといて』
「無理でーす」
外はいつの間にか雪がちらついていた。これから積もりそうなぼた雪だ。重たい灰色の雲は低く垂れこめていて、日中だというのに薄暗い。環町は一応東京だが、やはり山間部に雪は降るのだろうか。紬にとっては一年に一度、降るか降らないかだ。降れば都内は歓声やら悲鳴やらが聞こえてくる。紬はその悲鳴を事務所の窓から眺めるのが好きだった。由衣は事務所で寝泊まりをしているが、紬は近くのアパートから通っている。だからこそ、雪を理由に事務所で夜を過ごせるのが嬉しかった。
由衣のいない町。
紬の白い息が雪に交じって消える。
この雪が、由衣と一緒にいるための口実になってくれればよかった。
「由衣さん、雪ですね」
紬が呟くと、由衣の優しくて落ち着いた声は、すぐに返事をしてくれる。
『こっちも降っているよ。綺麗だね』
すぐ近くにいるようなのに、ずっと離れているのだ。踏み入れられない領域から、声だけが届く。それはとても嬉しいけれど、同時に胸が締め付けられるほど悲しかった。
紬は我慢ができずに携帯に手を伸ばす。園寺はいつもいつの間にか通話を抜けている。カメラモードをオンにすると、由衣も察して顔を見せてくれた。
見慣れた癖毛。やさしい垂れ目。大きな口が紬を安心させるように弧を描く。
『大丈夫かい?』
画面の向こう。遠いけれど、由衣の声は胸に染みた。
「……事務所に帰りたいです、駄目ですか由衣さん」
『! ……こちらが危険なのは分かっているね?』
「はい。それでも」
『そうか。なら、あと一週間だけ待ってくれるかい? それまでに堕ち神をどうにかしよう』
「一週間、ですか……」
長い。今すぐ帰りたい。
けれどそれは我儘だ。
紬はぐっとこらえて何とか頷くと、そっとため息を吐いた。
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