第三章
「隙」を埋める -1-
***
老婆はタエという名前のようだった。
土間に訪れた老人はタエの名を親し気に呼び、ほうれん草を花束みたいに手渡した。タエは少しだけ笑顔を見せる。受け取ったほうれん草を早速鍋に入れると、他の具材と一緒に囲炉裏にかけた。大根、しいたけ、白菜、ニンジン。冬の野菜は鍋にすると美味しい。由衣は立ち上る湯気の匂いに食欲を刺激された。外を窺えば、もう逢魔が時を過ぎて夜が迫っている。
今晩は泊めてもらおうか。
由衣は帰り道を思い出しながら、そうしようと決めた。明るいうちに帰ればよかったのだが、携帯から聞こえてくる紬の危機に肌を粟立てていたら、こんな時間になってしまった。
この村はある意味幸福だ。堕ち神に怯えずに暮らせる。タエは追い出されたと言ったが、環町は楽園ではない。この井守村こそが、本来あるべき環町の姿だった。
タエはぐつぐつと煮えた鍋をお玉でかき混ぜて、丼によそった。
「美味しそうですね。囲炉裏で食べられるなんて」
「トミヲのほうれん草がいっぺえだ。さ、いただきます」
タエは美味しそうに頬張って、憂鬱な気分も晴れたようだった。由衣も体がじんわりと温かくなるのを感じた。
「少し食いすぎたかな」
タエは残りの鍋をかき混ぜながら、自分の腹をさすっている。残っているのは一食分。タエは明日も食べようとしていたのだろう。由衣の分が足りないのを気にしているのだろうか。けれど由衣は朝が来たら早々に帰路に着こうと思っていたので朝食は辞退するとタエに伝えた。
タエは風呂に入りに行き、由衣は一人で井守村のことを考えていた。けれど体が温まっていて、たくさん歩いた疲れもあった。
気付いたら由衣は眠っていた。鍋は吊り下げられたまま蓋がしてある。由衣は体を起こし、タエを探した。壁掛けの時計は深夜零時を指している。
紬は大丈夫だっただろうか。
お休みと言わずに早い時間から眠ってしまった。話しかけられていたら申し訳ないことをした。
「紬君、」
もしも紬がまだ起きていれば返事をするだろう。けれど携帯からは音沙汰がなかった。
眠ったのだ。
明日の朝起きたら謝ろうと思い直し、由衣はタエを捜し歩いた。
家の中に人の気配がしなかったのだ。眠っている静けさとは違う、無人の無音。全ての部屋を見て回ったが、由衣の思っていた通り、タエはどこにもいなかった。
「タエさん?」
由衣が呼びかけても返事はない。
外に出たのだろうか……。
訳が分からないまま由衣も外に出た。タエはすぐそこにいた。由衣は呼びかけようとして、声を喉の奥で詰まらせる。
タエだけではない。昼間に見かけた三人だけではない。恐らく井守村の住人全員。みんなが集まっている。ほうれん草をくれたトミヲの姿もあった。
最初は話し合いでもしているのかと思ったが、すぐに毛色が違うと気付く。低い声で、抑揚もなく言葉を伸ばす――唄か。由衣は恐る恐る近づく。老人たちは日中の褪せた衣服とは違い、鮮やかな服を身に纏っていた。タエは赤い手縫いのセーター、トミヲは緑色。他の老人たちも、黄色やオレンジ、紫に青い服を着ている。
由衣は訝しがってタエに小声で尋ねる。
「これは何をしているんですか?」
「狙われれば、守られる。あたしは今年こそ環町に招かれる……」
うつろな瞳。呟いたタエは「アァァァァ」と声を張り上げると、そのまま踊り始めた。みんな踊り狂っていた。
手をひらひらと空に舞わせ、前に進んだり後ろに戻ったりを繰り返す。腰をせぐくめ、両手を上げて、くるりと回る。近くの人と手を繋いで、環町の方角を見据えて。
由衣は絶句して、その場に立ち尽くした。
みんなギラギラと異様に目を輝かせ、疲れてもつれる足に叱咤して踊り続ける。
「襲ってくだせぇ」
それは義務のように。
「守ってくだせぇ」
あるいは何者かに憑かれているかのように。
額に浮かぶ汗は、冬の夜には不釣り合いだ。彼らはなぜ……堕ち神に乞うのか。由衣は携帯で時間を確認した。夜中の一時が近い、零時四十四分。
井守村の老人たちは、わき目も降らずに踊っていた。
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