幽霊のいない環町 -10-
紬は二人と顔を見合わせて、占い婆が捲っていた部分を同じように潜る。ガーゼのようなちりめん生地の紫色が透けて、あちこちに濃淡を映し出している。布の波に乗せられて赤く散らばる自分を想像し、紬は目を瞑った。思い出すのはブラウンのスリーピーススーツ。心の底から安らげる、帰るべき事務所の色。
ようやく布が途切れた。薄暗い空間に麝香の香りが鼻をつき、紬はつまずいた風に立ち止まる。占い婆は円卓の上で座し、手には水晶を持っていた。円卓の周りにはロウソクが等間隔に円を描き、火の形に紫色の影も揺らめく。
後から追いついてきた葵と真白も目を瞬かせている。占い婆は薄目を開けて全員が辿り着いたのを確認する。
「これより、田中希衣の霊魂を召喚する。私の体に彼女が宿ったら、堕ち神について尋ねなさい。あの日、何が遭ったのか。堕ち神を見たのかどうか。彼女に協力を仰ぎなさい」
田中希衣は交通事故で亡くなった子だ。今年の本厄の、最初の犠牲者。
真白がごくりと喉を鳴らす。占い婆は再びを目閉じると、低い声で経を唱え始めた。
「なに、これ……」
紬は小声で葵に視線を送ると「降霊術です」と短い返事が返ってきた。
「たまにやるんです……こうしないと、幽霊と話せないから」
「……本物なの?」
「でなきゃ占い婆なんて呼ばれてません」
占い婆は体を小刻みに揺らしている。口の中で唱えるだけだった経も段々と大きくなり、しまいには耳を塞ぎたくなるほどの絶叫になった。
すると。白内障を患っている占い婆の、曇りがかった瞳孔の色彩が変わった。
――雲が流れ、現れたのは、鮮やかな赤。
猫背になっていた占い婆が背筋を伸ばす。龍が首を擡げた威圧感が、場の空気を研ぎ澄まさせる。
紅に咲く眸子が、爛々と紬を見つめる。
その場にへたり込んだ真白が紬の着物の袖を握る。葵は緊張したまま、疑わし気に名前を呼んだ。
「田中――希衣、さん?」
占い婆の唇が。綺麗な弧を描く。
違う。
紬は瞬時に悟った。
脳裏にフラッシュバックする、桃色の鼻緒。神主さんが証言した香々美の異様さ。
違う。
香々美が狂ったのではない。あれは、あれこそが、
「堕ち神……」
名前を零した瞬間、占い婆の身体を乗っ取った堕ち神は、ぬらりと立ち上がった。手から零れ落ちた水晶が鈍い音を立てて地面を転がる。
ゆら、ゆら、と覚束ない足取りで。近寄ってくる。
占い婆は失敗したのだ。田中希衣を呼ぶはずが、堕ち神を招いてしまった。
後退った紬は紫色の布を踏んで滑る。レールから千切れた布が紬の上に覆い被さり退路を断つ。
「紬さん!」
真白が悲鳴を上げて布を剝ごうとするが、それよりも早く、堕ち神は紬の上に馬乗りになった。薄い生地は透けて、紫色越しに堕ち神の顔が至近距離に見えた。
「神殺し」
憎悪に囁く、堕ち神の息。耳の奥でこだまするその言葉は、艶やかな着物を着た紬をサエだと混濁している。占い婆の節くれだった指が、紬の首に巻き付いた。
悲鳴が漏れ出る前に気道を塞がれ、容赦なく強い力が紬を地面に押し付ける。かっと熱くなった顔の火照りと、潰された喉の苦しさ。首から感じる自分の脈動が、まだ強く打っている。
――私は、サエじゃない。
強く念じながら、紬は堕ち神を睨み返す。けれど堕ち神は宿怨に囚われ、ただ憎しみに力を込めていた。
苦しい。
意識が飛びかける。
涙が滲み、ぼやけた視界の端から誰かが飛び出してきた。葵だ。葵は堕ち神の額に指を当てた。人差し指と中指。自分の脈動が煩く、葵が何を言っているのか判然としない。
目を閉じたら終わりだ。意識を持っていかれる。
頭の片隅で感じている危機感に、紬は歪んだ視界に目を凝らして葵を見た。
途端、紬を地面に押し付けていた指がふっと軽くなった。紬は激しく咳き込みながら、ぼろぼろと涙を零す。
死ぬところだった。危なかった。
えずきながら、喉を絞めた堕ち神の指の感触に震える。占い婆を見ると、占い婆もまた脂汗を浮かべながら放心していた。その隣で葵が背をさすっている。
「葵君、ありがとう……何をやったの?」
紬が咳き込みながら尋ねると、葵は真率の表情で自分の手を見つめた。
「御霊に力を貸してもらいました。……僕の体を通して、御霊は堕ち神に干渉したんです。
「そっか、御霊が守ってくれたんだね。御霊は平気なの?」
「かなり……消耗してます」
葵は言いづらそうにそっぽを向くと、地面にへたり込んだままだった占い婆を立たせて紫色の布を潜って行った。紬も立ち上がるが、まだ膝が笑っている。真白に支えられながら最初の部屋へと戻る。
占い婆は降霊術をしている時の記憶はないらしい。しわがれた声で何が遭ったのかと尋ねる占い婆は、紬の首を見ると青褪めて何度も紬に頭を下げた。縮こまる占い婆は可哀想で、いたたまれなくなった紬は大丈夫だったからと無理やり納得させて、逃げるように占い婆の館を出た。
けれど……明るいアーケードに目を瞬かせながらも、紬の脳裏にはあの紅い眼球がちらついて離れなかった。
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