幽霊のいない環町 -9-
***
聞きながら、紬はうすら寒いものを感じていた。
井守村、サエ、着物、桃色の鼻緒の下駄――。
あれだ。あの悪霊……人に害をなした堕ち神が、関わっている。
手に嫌な汗を搔き、足首を掴まれた感触が蘇る。
紅い眼球は、やはり見てはいけなかったのだ。携帯の画面いっぱいに映った何か、あれは堕ち神の眼球だったのだ。
ぞっとして、占い婆に一から説明するのも怖くなる。事実と昔話が一致すればするほど打ちひしがれてしまう。
いつになれば由衣のところに帰れるのだろう。
堕ち神を退治するのは現実的ではない。けれど、そうしたら紬は一生環町から出られない。
黙り込んでいる紬に気付いた葵は、紬の代わりに占い婆に、環町の境界線での出来事を伝えた。
聞くや否や、占い婆の顔つきは険しくなる。
「それは、本当かい。堕ち神はこちら側に来ようとしていたのかい」
本厄の年に森より堕ち神打ち出づる。隙を作るべからず。下駄と衣隠して大人しくしたり給へ。然らば災厄降りかからん。
今年は本厄。環町に入ろうと、堕ち神は虎視眈々と機会を窺っている。
「私の足首を掴んで、環町から引きずり出そうとしてた……と思います。境界を越えようとしたら、堕ち神の手がじゅって焼けて」
「あれは堕ち神をこちら側へ招かないための結界だ」
「え、それって」
紫色の布が敷かれたテーブルの上に、占い婆はためらいなく煎餅を置く。丸い煎餅を環町に見立て、占い婆は人差し指で煎餅をぐるりと囲った。
「土地神が堕ち神になり、災厄をもたらす存在となった時点で、新しい土地神様が誕生した。葵君に憑いている御霊や加見さんの親玉だ。新しい土地神様は『魔』がこちら側へ入り込まないように、環町と外界とを結界で区切った。環町を回る列車は絶えず結界を更新し、いついかなる時も悪霊の――堕ち神の侵入を阻止している」
だから列車は止まらないのか。
紬はひとまずは結界の内側にいることに安堵しながらも、井守村――由衣が心配でならなかった。
「堕ち神は無差別に人を襲ってるんでしょうか。環町の外に私の大切な人がいるんですけど、大丈夫ですか」
「堕ち神は環町の人間を恨んでいる。安心なさい、貴女の大切な人は無事だ」
「で、でもじゃあなんで私は襲われて」
「一度でも環町に入れば、或いは霊感が強ければ――。堕ち神の怨念を直接被った人たちはもう生きてはおらん。堕ち神も厳密に区別できんのだろう」
理不尽な話だ。紬は環町に入ってしまったから、もう堕ち神から逃れ続けるしかないのだろうか。由衣は逆立ちしても堕ち神には襲われないと分かって気持ちも落ち着いたが、残ったのは不満だった。
が、紬も大人だ。占い婆に詰問したところで堕ち神はどうにもできない。消化できない不満はそのままに置いておいて、先に進むしかなかった。メモアプリを開いた紬は占い婆に向き直る。
「実は、祠で亡くなった被害者の方がですね、サエについて尋ねているんです。神主さんから証言が取れました。今話していただいた昔話は、どうやって伝わったのでしょうか」
昔話の語り部であったサエは亡くなっている。
占い婆は重々しく口を開くと、
「サエという女の子を神様は殺した。それによってかつての土地神様は堕ち神になったと考えられている。先ほどの昔話はサエから直接聞いたのだ」
「! どうやって?」
「降霊術さ。サエはとても後悔していた」
「サエは呪われて堕ち神に取り込まれたんじゃないんですか?」
「人間はあくまで人間だ。呪われて死んだだけ。神様は人間には殺されない。肉体が朽ちただけで元の霊体は消えはしない。だが、人間を呪った神は堕ちるんだ」
「じゃあ私が見たのも、元は神様だった……」
紬は葵の顔色を窺う。葵には神様が憑いている。不安にはならないだろうか。
葵は無表情のままで何を考えているか分からなかったが、真白も平気そうな顔をしていたのでそっとしておくことにした。
占い婆に聞いた話で、大体の事件の概要は掴めてきた。香々美も過去の井守村の話を知っていた。恐らくサエが死んだ場所を自ら訪ねてしまったのだろう。自分は堕ち神に襲われないと信じて。
けれど堕ち神は環町から出てきた人間を見逃しはしなかった。香々美は堕ち神に殺されてしまった。しかも事件はまだ始まりに過ぎない。
神主さんが話していた堕ち神の言い伝え。
占い婆が予言した今年の災厄。
香々美だけで終わるはずがなかった。
未知の不安が紬を襲う。意図せずして当事者となってしまったのだ。由衣に会いたくても会えない。結界に隔離され、大人しくしていなければ香々美の二の次になる。
占い婆は紬よりも事態を重く見ていた。意を決した占い婆は服を引きずりながら立ち上がると、天井から垂れ下がる布をかいくぐって部屋のさらに奥へと進む。
「はやく来んさい」
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