幽霊のいない環町 -8-


「ありふれた着物。神の衣ではないんじゃないかしら」

「そ、そんな――こんなに綺麗で、みんなが頑張って……」

「人間は嫌だわ。怠け者のくせに貪欲で、見苦しいったらない」

 険悪感にひりついた神の声色。サエは神様が喜んでくれるかと考えていた。それだけに、あまりにも正反対の神様には戸惑いを隠せなかった。

 どうして?

 そんなに傷つける言葉を……。

 神様なのに、どうして?


 サエは堪えきれない涙を零す。

 違ったのだ。サエの想像していた井守村の土地神様は、美しくて、着物を手放しに喜んでくれる――優しい女神様だと信じていた。

 ――こんなに、上等な着物を。

 サエの着ているものとは比べ物にならない。艶やかで、金刺繍は惚れ惚れする。誰もが羨む神様の着物。この一年、働き者の村の人たちが神様を想って拵えた。胸を張って逸品だと言える。


 それを、神様は踏み躙った。

 サエにはその姿が、とても醜く思えた。

 こんなの、神様じゃない。

 神様の意地悪な眼差しはサエを見下していた。綺麗な弧を描く唇ももう、サエには不気味にしか見えなかった。

 神様じゃないならなんだろう。私たちは何を祀っていたんだろう。


 醜い……悪鬼とでもいうの?


 頭の中で、チラリと反射した硝子の欠片。ほんの一欠片が、やけに引っかかる。村人を踏み躙って嗤う悪鬼は、灯りを落とした悪鬼は、この暗闇に解けて肥大する。やがては村に害を成す。

 そうなる前に、止めないと――。

 サエは提灯を悪鬼に向けて投げた。提灯は悪鬼にぶつかって火の玉となり、悪鬼自身の着物にも燃え移る。


「っ! ちょっと、貴女――」

 裾を登り、足へ、胸へ、顔へ。

 闇を晴らす鮮やかな光は悪鬼を包む。苦しそうに、くねくねと身を捩らせる悪鬼は、断末魔の叫び声を上げて目を剥いた。

 ほら――実態がある。神様じゃないわ。

 神様だったら、死なないもの。人間なんかに殺されないもの……。


 悪鬼の眸子ぼうしは火を映しながら、爛々とサエを睨めあげている。悪鬼は落とした金刺繍の貢物に気づきもせず、踏みつけて、火を移して、一緒に燃え盛る。

 この夏の夜に、炎が盛る。

 まるで大祭の炎だ。

 サエはただ、火だるまになる悪鬼を眺めていた。悪鬼が苦しがるほど嬉しかった。悪鬼が絶叫するほど胸がすいた。まじろぎもせず煌々と照る炎を見つめていると、輪郭が幾重にも揺らいで見えて、光と闇の狭間でもがく悪鬼が際立って滑稽に見えた。


「この――神殺しめ!」


 悪鬼の形が崩れる直前、喉の奥から絞り出した、悪鬼の声が聞こえた気がした。地の底から湧く怒りと呪いの声だった。

 その声が、サエの首を縛り上げた。

「――っぐ」

 蜘蛛の糸を思わせる細い呪いの糸は、サエの首にキリキリと巻きつく。サエの視界は涙に滲み、黒焦げの悪鬼を睨んだ。その黒焦げの中から、つき刺さるような紅い何かが目に入った途端、サエの体は硬直した。


 糸はどんどんときつく締まって、遂に気道を完全に塞がれた。サエは糸を剥がそうとしたが、腕が動かない。指一本動かない。視界は悪鬼に固定されている。あんなに騒がしかった虫の鳴き声も、いつの間にか不気味に静まりかえっている。

 なにが――。

 混乱の中から恐怖が湧き上がる。

 悪鬼の力? 本当に神様だった? ……いや、そんなはずない。だって、悪意に満ちたあの女が神様だったとしたら。


 ……それじゃあ私は。

「神殺し」


 右の耳に息吹きがかかる。死んだはずの悪鬼が囁いた。全身の肌が粟立ち、冷や汗が背中を伝う。サエの視界は固定されて、そちらを見ることができない。

 私は……誰を殺したの。

 息ができない。体が動かない。

 くるしい――。

 顎を伝う水の感触。頭の中に靄がかかる。恐れや戸惑いが薄れていく。何も考えられなくなって、苦しさを感じなくなって。


 私は死ぬの。


 そうして全てを悟った時、ずっと視界にあったそれがなんなのか、サエはやっと理解した。

 紅い何か――それはサエを見つめる神様の眼球だった。

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