幽霊のいない環町 -7-
***
星をまとった鎮守の森は、夏の虫が盛んに飛び交う昼間と違って凄みを増していた。夜の帳が下りると、大部分が丘陵地の森と川に面する井守村は闇に包まれる。窓硝子の向こうは頼りない街灯がぽつぽつと灯り、虫が集まってジー、ジー、と騒いでいる。その奥に、なぜだかはっきりと森が見える。梢のざわめきや、森全体のシルエットが、闇よりも濃く見える。石造りの鳥居と灯篭は厳かな空気を張り、森を包含した龍が睨んでいるようだった。
あの中には土地神様がいるんだよ。
母は何度もサエに言って聞かせた。土地神様は外の悪い気を祓って、井守村を護ってくれる。だから私たちは年に一度、大祭の日の子夜に着物を貢ぎに森へ行くの。神様を祀る大祭で、主役の神様が参加できるように。
サエは着物を持たされる。母の鬼胎を抱いた瞳に「大丈夫よ」と返す。母はそれでもサエの身を案じた。真夜中の森は危険が多い。ただでさえ暗い中、獣の鳴き声が聞こえる晩だってあった。サエは自分の着ている粗末な着物とは比べ物にならない上等な着物に目を落とす。鮮やかな花柄は丁寧に折り畳まれ、襟に挿した一輪の鬼灯。小さな赤い提灯を押し潰してしまわないよう、サエは慎重に着物を胸に抱いた。
「じゃあ、行ってきます」
「ちゃんと、祠の中に置くんだよ。朝露に着物が濡れてしまわないように」
「分かってる」
母はそれでも心配を拭いきれずに眉を顰めている。サエも憂惧はあったが、今年の着付け係に井守村を代表して選ばれたのだ。責務を全うしなくてはならない。
去年着付け係だったユミちゃんも、一昨年のシズカちゃんも大丈夫だったんだから、私にだってできる。祠には何度も行ったことがあるし、今日の日のために練習だってした。ちょっと行って置いてくるだけだもの。
「……やれるわ」
サエは片方の手に着物を抱き、もう片方の手で提灯を持ち、道を照らす。
心の底に燻る恐怖には気付かぬふりをして、サエは早く終わらせてしまおうと早歩きで森へ向かった。
森までの道沿いにある家は既に灯りを消して寝静まってはいるが、着付け係のためにこの日だけは篝火が焚かれている。森までの道標となる篝火は、鬼火のようにサエを導いてくれる。この明るさは優しい村の人たちの気遣いだ。サエは少しだけ緊張が解れて、灯りの向こう、森の暗闇に目を眇めた。目の前を何度も横切る蛾を手で追い払いたいが、貢ぐ着物を乱雑に扱うわけにはいかない。牛蛙の喧しい声を聞きながら、サエはいつもと同じ夜に少しだけ安堵した。
鎮守の森の鳥居を潜り、灯篭の数を数えながら進む。八つ目の灯篭の隙間を右に抜け、斜面を慎重に歩く。蘖や隆起した根に足を取られないよう、提灯で照らした地面と睨めっこしながら祠を目指した。余りに慎重に歩き過ぎて、家から出て何分が経ったのか、分からなくなってサエは焦った。いつもの何倍ゆっくり歩いているだろう?
零時は近い。
この日は零時ちょうどに鐘を鳴らす。着付け係が着物を置いたと神様に知らせるためだそうだ。
その鐘の音が鳴る幻聴を聞き、サエはびっくりして立ち止まった。
提灯の、明かりの範囲。落ち葉と土が見える地面の、闇との境界線の少し手前。白い足袋と漆塗りの下駄を履いた華奢な足が、あった。
サエの心臓は縮み上がって、ヒュッと息を吸う。顔を上げるのが怖くて、いやまさかそんな、と確認したくて、見てしまったら後悔する気がして……動けなかった。
学校の友達が脅かしにきたのかもしれない。臆病なサエには務まりっこないって、みんな馬鹿にしてた……。
「ねぇ――貴女」
鈴のような声の後ろに錆びた悲鳴が混じる。耳の中をぞわりと掻き立てられ、生ぬるい風が首筋や腕を撫でる。
人間の声ではない、異質さが滲む。
返事をしたら、黄泉に連れていかれる?
分からない恐怖から、混乱に陥ったサエは、腕の力が抜けて着物を落としてしまった。
ザリ――ザリ――
一歩、二歩。近づいてきた誰かが着物を拾い上げる。あ、とサエは足を踏み出してしまったが、相手は意にも介せず、すらりと長い指が鬼灯を摘んで視界の外に消える。
サエは思い切って、桃色の鼻緒に向かって話しかけた。
「あなたは、誰ですか?」
瞬間、空気が闇に染まった気がした。
提灯の灯りがなぜだか遠い。心許ないほど小さく、消えそうな蝋燭の火みたいに頼りない。
「誰に着物を渡すかも分かっていないなんて」
桃色の鼻緒から見える足は華奢で品があり、鼻で笑った言い方にすら高貴さを感じる。
着物を渡す相手――それは神様。
鐘の音は幻聴なんかじゃなかった。
サエは自身の褪せた着物が土に塗れるのも厭わず、膝をついて着物を神様に差し出した。
「ご、ごめんなさい……あの、私、時間に遅れちゃって」
「えぇ本当。悪趣味な鬼灯を添えて、おまけに遅れてくるなんて。怠惰極まりない、神に対する忠誠心も惰性ね」
趣味の悪い、鬼灯?
とても綺麗な提灯、闇夜を照らす提灯……喜んでくれるかと、思っていたのに。
サエは悲しみを抑えて地面に目を落としていると、握り潰された無残な鬼灯が、ぽとりと視界の隅に落ちた。
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