幽霊のいない環町 -3-


「こんにちは、遠香紬と申します」

 紬は名刺を渡す。神主はまじまじと名刺を見た。

「こりゃあ美しいお着物で。……例の事件のお話ですかな?」

「例の?」

 神主は着物を見ながら頷いて、広場の方へ視線をやる。

「事件があったんじゃろう、あの森の奥で。何やら騒がしかったしなぁ、警察もいたからすぐに分かった。あの奥は祠に繋がっとる」


 神主は神妙な面持ちで目を眇める。

「気を付けなされ。その艶やかな着物は堕ち神を呼び寄せる」

 椚原香々美の最期を追いかねない。

 この神主は結構知っていそうだ。神主の慧眼は憂いを秘め、引き結ばれた口には真面目な意思が宿る。

 紬は何から聞こうかと考えあぐね、指を折って数えてから順に尋ねた。


「あの建物って神楽殿ですか?」

「……あぁ、大祭の日に地主の宇衛家が舞うんだ」

「え、宇衛って葵君?」

「舞うのは巫女。長女の真白ちゃんだ。だが葵君にも大切なお役目がある」

「へー、見てみたい。大祭? っていつですか?」

「一月の十五日、あと五日後じゃな。町の人は全員この神社に集まって土地神様にお祈りするんじゃ」


 十五日ならまだ環町にいるかもしれない。詳しい話は葵に聞いてみよう。

 紬は携帯のカレンダーに大祭とだけ書き込んだ。

「この広場の奥が境界線で、祠に続く道があるんですよね。ここから向こうに抜けることって可能ですか?」

「うむ、見ていただいた方が早い」

 神主は社務所から竹の熊手を取り出してさっさと歩いて行った。紬は後を追いながら神楽殿を見る。


 ここで舞う葵も見てみたかった。葵は猫みたいにしなやかだから、きっといい舞を踊れる。

 神主は広場の奥の森に入っていくと、少しだけ落ちている葉を寄せ集めながら、視線で境界の先を見るように言った。

「無謀で粗野な者なら簡単に行き来できるじゃろ」

 境界線の手前には、簡単な竹の柵と線路。境界線沿いは列車が通るのだ。竹の柵は腰までの高さしかなく、跨ごうと思えば誰でも通れる。子供ならするりと潜り抜けてもおかしくない。けれど列車がいつ来るか分からない線路の上を、無断で通るのは軽率な人にしかできない技だ。


 香々美は無謀で粗野だったのだろうか。

「椚原香々美さんを見ましたか?」

 紬は香々美の写真を見せた。

「ああ……よく覚えとる。この神社に興味があるようでな、いろんなことを尋ねて行かれた」

「! 覚えている限り教えてください」

「すると、やはりこの女性が……?」

「亡くなりました」


 紬がそう告げると、神主は天を仰いで放心してしまった。

「なんてこった……今年は本当に本厄なのか……」

 滲む感情は絶望だ。

「本厄って、そんなに悲嘆するほど、起きるんですか? 何か……」

 交通事故で亡くなった三人家族。不審な死を遂げた観光旅行客。おかしいとは思うけれど、紬はまだ偶然の線も捨ててはいなかった。偶然という重なり合いは、確かに存在するのだ。


 神主は紬の疑念に、それはあり得ないと強い口調で断言した。

「起きるとも。だから私たちは環町に住まざるを得ないんだ」

 神主は紬の顔を見ながらゆっくりと説明した。

「この環町には古くからの言い伝えがある。ただの言い伝えではないぞ、これは先人の戒めじゃ。本当にあるからこそ、環町の住人はこの狭い輪の世界で、本厄に備えられる」

「不思議な町ですねえ」


「私たちもこれが普通とは思っとらん。『本厄の年に森より堕ち神打ち出づる。隙を作るべからず。下駄と衣隠して大人しくしたり給へ。然らば災厄降りかからん』私たちはこの警告に守られて暮らしておる。椚原香々美さんも、堕ち神にやられたと考える他あるまい」

「堕ち神……」

「あれほど華やかな着物で境界の外に出たのだ、ひとたまりもない」

 本当にそんなものがいるのだろうか。けれど紬は悍ましい悪意に襲われた。足首を掴まれた感触はきっと一生忘れられない。紬はうすら寒いものを感じた。


「本厄については占い婆の方が詳しかろう。よくよく知りたければ彼女の元を訪ねなさい。で、椚原香々美さんについてじゃったな」

 神主は思い出したように熊手をぽんと叩くと、赤い鳥居の方へ目をやった。

「彼女は……破天荒じゃった」

「! へぇ、意外」

「ちょうど今の貴方のように華やかな着物を着て、真っ赤な口紅で笑っておった。サエは死んだとかなんとか呟きながら、儂にその女子おなごのことを尋ねてな。私はサエという女子は知らん。そう言ったら彼女は笑ったんじゃ」


「イカれてますね」

 紬は断言すると、神主は少しだけ後悔したように頭を掻いた。

「急にサエと言われて、環町の昔話と結び付けられなかった。初詣で人も何人かいたし、てっきり誰かと待ち合わせているとばかり思ってな……私があの時、椚原香々美さんに昔話をして、無鉄砲を諭せれば、或いは違う結末だったのかもしれない……」

 はあ、と諦めたような重たい溜息を落とした神主は、節くれだった指で熊手を強く握った。


「私はこの熊手で鳥居の下を掃除しておった。彼女は何をするでもなく境内を見学している風じゃった。小一時間くらいいたからよく覚えとる。それに、あれだけ派手な着物じゃ、お帰りの時には気付けたはず……」

 神主は竹の柵に手をかける。

「私の目を盗んで、これを越えて森に入ったんじゃろうな」

「なるほど、それで、そのまま……。境内にいた他の人は、香々美さんが消えた後も境内に?」


「いや、椚原香々美さんが最後じゃった。椚原香々美さんが来た頃には……高校生の男の子が二人と、駐在の佐伯さんと、私の友人で神様の加見かみさんがおった」

「神様の加見さん?」

「あぁ、外の人は知らなんだな。加見さんは環町を守って下さる神様の分身じゃ。葵君を知っとるなら御霊のことも聞いたんじゃろう?」

 紬はひとまず頷く。


「高校生の二人は加見さんとすぐに帰ってった。そいで私は佐伯さんと、年が明けてすぐの事故について話しとって、その佐伯さんが帰る時も椚原香々美さんは神楽殿の辺りにおるのを見た」

「事故ってあの、年明けて数分で、自動車事故で三人が亡くなったっていう、あの?」

「あぁ。震駭したよ、占い婆の予言が的中しよったってな」

「その後、森の方で異変は?」

 香々美は燃えている。煙でも見ているかと思ったが、神主は首を振った。


「社務所から森は見えないんじゃ」

「香々美さんが森に入った時間は覚えてますか?」

「一月三日の……昼の鐘が鳴った時はまだ彼女は境内におったから、十二時から十二時半の間じゃな。儂は十二時半から昼食で一時間社務所におるから」

「え、じゃあ私休憩の邪魔しちゃいました?」

 紬が時間を逆算しながら呟くと、いかめしい顔をしていた神主は小さく笑った。

「ちょうど出ようと思っとったところじゃったよ」


 紬は境界の外側の森に目をやる。祠から流れていた黒い煙は神社の方までは来ないようだ。ここから見える獣道の、もう少し向こう側には石造りの灯篭があり、そのさらに奥に――紬は目を瞑って、もう一度森の奥に目を凝らす。

 と。

 ほんの刹那、そこにいた。

 それが何か、紬が理解する前に、瞬きの間にそれは消えてしまったが、姿が網膜に焼き付いている。


 赤い唇が弧を描く、鬼灯を持った幼い少女の姿。


 火傷した足首が思い出したように痛む。紬はもう一度森を注視するが、もうそこには何も視えず、ただの深い緑が茂るだけだった。

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