第二章

幽霊のいない環町 -1-



 紬が目覚ましをかけるのを忘れたと気付いたのは、昼前に起きてからだった。

「あー……やば」

 携帯を見ると、既に着信が何件か入っている。由衣が四件と、園寺から二件。

 いつ寝たんだっけ……。

 紬は昨日の記憶を掘り起こしながら、髪を無造作に結わえ、とんちんかんな状態の浴衣を後ろ手に払った。


 環町旅館は奥ゆかしく、年季を感じさせる旅館だった。その年季はおんぼろへ向かうのではなく、重厚感として旅館を彩っている。入り口にも高級旅館でよく見る立派な造花が飾られていた。金色の枝に真珠のような玉が生っている雅やかな逸品だ。女将は優しくてあれこれ気を配ってくれたし、案内された部屋も一人には十分すぎる広さの和室。紬は幽霊がいない和室に一度は泊まってみたいと思っていたのだ。昨晩ははしゃいで広縁で缶ビールを飲みながら由衣と話していた。確かその後、倒れ込むように布団で眠ったのだった。


 紬は歯を磨きながら広縁の椅子に座る。コの字型の旅館だから、窓の外は客室だが、下を覗けば見事な中庭だ。遣水は大きく曲線を描き、池に繋がる。池中の石の橋や龍門瀑りゅうもんばくは夜にライトアップされていたら綺麗だろう。昨日は見るのを忘れた。丸く大きな石の鉢には金魚が泳いでいたし、窓を開ければどこかから鹿威しの音が聞こえる。


 幽霊から逃れて環町から動けなくなった時はどうなることかと思ったが、こんなに優雅な気分になれるとは。けれど足首を見れば、赤黒く変色した禍々しい手形がくっきりと残っているし、由衣はいない。あまりにも非日常の事実は、心臓に重石を付けられているみたいに紬を苛んだ。気付かないふりをした反動で、ハメを外してしまうのも仕方がない。

 紬は昨日買った軟膏を入念に足首に塗り込み、身支度を整えて由衣に電話を掛けた。


「由衣さんおはようございます」

『よく眠れたみたいだね。気分はどうだい?』

「いい感じです。ほんとに幽霊がいなくて」

『それなら私も安心だ。そうだ、和也から電話が来ていただろう』

「まだ掛けてないです。由衣さんと一番に話したくて」

『光栄だね。でも和也も切迫してるみたいだから、話を聞いてあげて』


「はい。じゃ通話に招待しますね。由衣さんが聞いても問題ないでしょう?」

 紬は園寺にグループ通話のメッセージを送る。するとすぐに通話中が三人表示になった。

『起きんのおせぇよ、紬ちゃん。俺マジやばかったんだけど!』

 ちっともやばくなさそうな言い方だ。

「ごめんなさい、いい旅館だったもので」


『……あー、そう。よかったな。忙しいから本題入るぞ。昨日も話した通り、由衣探偵事務所に依頼する。環町にも警察はいるけど、紬ちゃんは俺の目と手足になって。起きた事件の詳細を俺が言う通りに集めてきてくれ』

「面倒そうですね」

 紬は思わず本音を零してしまった。由衣が穏やかに場を取り持つ。

『まあまあ。和也ももどかしいだろう』

『そんくらい頑張ってくれよ紬ちゃん。助手の仕事だろ?』


「そうですね……やるだけやります」

『よし。で、昨日の報告な……被害者は椚原香々美。祠の裏であおむけに倒れてた。直接的な死因は一酸化炭素中毒。前後の状況から自殺は考え難い。妙なのは武人さんも知らない着物を着てたってとこかな。詳細は後でメール送っとく。事件性の疑いしかねぇんだけど、昨日紬ちゃんが遭遇したっていう幽霊のこともある。まず椚原香々美の死の謎について目撃証言を集めてくれ』

「聞き込みですね。分かりました」

『あともう一つ、私からもいいかな』


 由衣が申し訳なさそうに言う。

『紬君にいくつも頼むのも気が引けるんだけど、少し引っかかることがあってね』

「何ですか? いいですよ、由衣さんの頼みなら何個でも」

 紬が由衣に言った言葉に、すぐさま園寺が乗っかって揶揄う。

『実を言えば俺もあと五個くらい頼みたいんだけど』

「それは目撃証言を集めてからにしてください」

 紬がすげなく断ると、電話の向こうでケケケと笑う声がする。


『紬君が襲われた昨日の悪霊なんだが、どうもあの霊は視えている人を対象に襲っているようだったね。関所のお爺さんは環町の人ではなく、幽霊も見えていなかった。彼が襲われない理由なんじゃないかと思う。あとは単純に性別の違いもあるけれど……私が推理するに、あの幽霊は環町を恨んでいる』

「恨み……ですか」

 だから紬だけ襲われた。

 由衣も園寺も武人も環町には入れない、謂わば『環町の外側の人間』。由衣は思慮深い声で淡々と告げる。


『そのこともあって環町には幽霊を退ける力が備わったんじゃないかな。あの悪霊が町へ入ってこられないように。紬君は霊感があったことで、悪霊に環町の人間だと認識された可能性がある。そして香々美さんも。あの悪霊に捕まったのかもしれない』

 軟膏を塗った足首が疼痛に熱を持つ。紬はぞっとして辺りを見回した。拍子抜けするほど疑念の余地もない、明るい部屋。脳裏に浮かんだ化け物の姿はどこにもない。紬は安堵して携帯に向き直る。


「香々美さんが着物を着てたことも関係あるんでしょうか。あの悪霊は、恐ろしく綺麗な着物を着ています。赤い花柄に金糸の刺繍の着物です。あと桃色の鼻緒の下駄を」

『そうかもしれないね。着物に関する情報も聞いておいた方がいいかな。あとは紬君、環町の歴史や言い伝え、昔話……そういったものから幽霊と環町の関わりを割り出してくれないかい?』

「了解です。ちょうど今日、葵君と占い婆っていう人のところに行く約束をしてたんです。なんでも、祠の話を知ってるらしくて」


『ああ、そうだったね。じゃあその時にいろいろ聞いてきて欲しいな』

「はい」

 香々美の死の目撃証言と、悪霊と着物が環町にどう関わっているのか。後者は占い婆に聞けば大体分かるだろう。

 前者は……ひとまず葵に聞いてみよう。

 園寺が通話から退出する。紬は携帯をコートの胸ポケットにしまって部屋を出た。朝食は食べ損ねたが、昼食は間に合う。


 そうだ、女将にも話を聞かないと。もし香々美がこの旅館に泊まっていれば、何か知っているはず。

「由衣さん、武人さんは香々美さんが環町でどこに泊まって、誰と話して、何をしてた――とかは何も知らないんですか?」

『残念ながら。香々美さんは環町には何度も訪れていたそうだけど、しがらみのない休暇を過ごしたいと武人さんには一切を伝えていなかったらしい』

「そんなことってあるんですね」


 紬とは真逆の人だ。けれど武人は香々美が祠に興味があることを知っていた。

「香々美さん、着物を着てたんなら目立ってたんでしょうね。目撃証言はすぐ解決しそうじゃないですか?」

『そうだといいね』

 言う人によっては皮肉にも聞こえる言葉でも、由衣の口を介せばそっと背を押してくれる言葉になる。紬はそれが好きで、由衣の言葉を反芻しながらムフフと忍び笑った。


 聞き込みと頭で理解していても、紬の体はまだ起き抜けで、旅館から出たくなかった。ちょうどいいや、と紬はラウンジの窓側の席に座る。簡単な昼食メニューを眺めながら中庭を見ていると、得も言われぬ優雅な気分だった。だが紬も給料泥棒ではない。一番安いセットを頼むと、背もたれに頭をついて寛いだ。

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