探偵助手はさみしがり -6-


 紬もぐっと我慢して画面を睨む。もしも、由衣の身に害をなそうとする者がいれば、それが視えるのは、止められるのは紬だけ。

 地面に凝っていた空気は周囲全体を覆いつくし始めている。道の先に、恐らく椚原の目指している祠に、何かがあるのは間違いない。

『あ、ありました!』

 椚原の声が聞こえたのと同時に、祠が一瞬画面に映った。


 灯篭と同じ石造りの古びた祠から、黒い空気が吐き出されている。感情が集まった地ではなく、祠から湧いている。紬の全身が金槌に打たれたように痛む。

 途端、画面が暗転したと思うと、何かが映った。その異質さに、何が映ったかを考えるまでもなく、紬は携帯を落とす。指に力が入らなかった。

 画面割れたかな、と屈んで取ろうとしたら、携帯の少し先に、桃色の鼻緒が見えた。


 ――やばい。


 これは駄目なやつだ。

 紬は遅れて理解した。携帯の画面に映っていたのは、紅い眼球――決して目を合わせてはいけない。

 今、紬の目の前に佇んでいる幽霊は、今まで感じたことのないくらい、けばけばしい気を放っていた。ちらりと見ただけだが、それでも分かる異質さ。環町に入りたがる幽霊は、みんな衣服が破けていたのではなかったか。襤褸切れを纏った幽霊とは一線を画す、上等な下駄を履いた何か。


 紬は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。尻もちをついた。すると、腰から上がふっと楽になった。

 いや、違う。

 幽霊の入れない環町の境界線を、腰が越えた。紬は顔を上げ、目を合わせないように薄目で正体不明の幽霊を見遣る。


 息が止まった。目に染みる赤い花柄の生地に、雅やかな金の刺繍が施された着物。目を見張るほど美しい着物、その裾から伸びたのは、黒く爛れた腕。が、掴んでいた。紬の足を。

「――ヒッ」

 喉が引き攣る。無我夢中で足をばたつかせるが、黒い腕はびくともしない。肉は溶け、骨が見えている。紬がどれだけ踏ん張っても、怪力の腕は紬をずるずると環町から引きずり出そうとした。紬は助けを求めて辺りに人を探す。けれどしんと静まり返った境界線の周りには誰もいない。関所の老爺も姿が見えない。


「だっ……! 誰か!」

 紬の悲鳴が列車の音にかき消される。

 孤独や好意じゃない。

 足首から伝わる、おぞましい悪意。

 捕まったら死ぬ。足は動かない。摑まるものもない。ずり、ずり、と境界線からはみ出す体。

 紬は必至で環町の方を見る。誰か来て、引っ張って――。


 その願いが届いたのか、学生服の男の子が鉄道橋の端から顔を出した。男の子は紬を見るなり血相を変えて飛んできた。

「引っ張ります、摑まって!」

 男の子は見た目よりもずっと力が強く、腰にしがみつく紬をぐい、と引っ張る。腹まで侵されていた紬の体が、膝、ふくらはぎ――と帰ってくる。爛れた腕は、躍起になって紬の足に巻き付こうと手を伸ばす。


 その指先が、境界線を越えようとして――じゅっと焼けた。


 紬の足は指の先まで環町へと入る。漆塗りの上品な下駄。桃色の鼻緒が境界線すれすれで立ち止まって、かき消えた。

 紬の心臓は今にも体から飛び出してしまいそうに早鐘を打っていて、震えが止まらなかった。全身から冷や汗が出て、鳥肌が立っていた。

「だ、大丈夫、ですか……?」


 学生服の男の子は、はあはあと荒い息の合間から、顔を歪めて紬の足首を見る。紬の足首は、あの爛れた腕の掴んだ部分がくっきりと火傷の痕として残り、ヒリヒリと痛んだ。

「あ、あの、私の、携帯と、スーツケース……」

 由衣との繋がりが。

 目を凝らして携帯の画面を見るが、何が映っているのか判然としない。青空と、白くぼやけた昼間の月が画面に反射している。


 由衣は無事だっただろうか。

 あの下駄が、由衣の元へ向かわないだろうか。

 紬の両目から、ぼろぼろと涙が溢れた。

「ゆ、由衣さ……どうしよう」

「! 誰かやられたんですか」

「私の由衣さんが、森に、祠のところで……」


 携帯までは、歩いて二歩。指が震え、一瞬前の悪夢がフラッシュバックする。この線を越えたら。また、腕が現れて紬を襲うのだろうか。竦んだ心が、由衣に繋がる携帯に、境界線を越えて手を伸ばせない。

「長い棒か何かないですか! 携帯を見ないと」

「棒……あ」

 男の子が境界の向こうに手を振る。見ると、関所の老爺が駆けてくるところだった。

 桃色の鼻緒の下駄も、黒く爛れた腕も現れず、老爺を襲おうとはしなかった。紬の荷物が散らばっているだけ。


「どうした、お嬢ちゃん!」

「それ、取ってください! 携帯!」

 老爺は訳も分からず、携帯とスーツケースを拾うと境界線を跨ぐように置いた。

「儂がちょっと屈んで作業してる隙に……何が遭ったんだ?」

「やばいのがいたんですよ。見なかったんですか?」

「儂は環町の人間じゃねぇ、霊感はない」


 老爺はそう言って紬の具合を心配しながら関所に戻っていく。何も知らずに車で通過しようとした若者たちが、窓を開けて老爺を呼んでいた。

 紬は恐る恐る携帯を見る。もう眼球は映っていなかった。まだ通話中になっていたが、画面は暗転したままだ。

「由衣さん、聞こえますか、由衣さん!」

 紬が半分叫びながら話しかけると、画面が動いて由衣の顔が映った。

『紬君、大丈夫だったかい? 急に声が聞こえなくなったから、何かが遭ったんだと思って……今、そっちに向かってるよ』


 携帯はポケットに入れていたらしい。ガサガサと道なき道を歩く音がする。

「今、幽霊に襲われたんです。環町に入って難は逃れましたけど……そっちは大丈夫ですか? 桃色の鼻緒の下駄の、黒焦げの腕です」

『そんなものはいなかったけど……こっちも色々あったんだ。着いたら説明するよ。あと二十分もしない内に着くから待っててくれるかい?』


「分かりました」

 通話中にはしたままで、紬は上着のポケットに携帯を入れておく。

 よかった。由衣の方へは行かなかったのだ。

 紬はどっと安心すると、またその場に座り込んでしまった。


「お礼が遅れてごめんなさい、学生の……」

 さらさらな黒髪に、実直な瞳。男の子は怖がるでもなく、はにかむでもなく、聞かれたことだけに答えた。

「宇衛葵です」

「葵君。すごく助かった、ありがとう。私は遠香紬といいます。都内で探偵の由衣さんの助手をしてて、今日は用があってここに来たんだけど……この後時間ある? 由衣さんとの話が終わったら、何かお礼させて」


「いえ、別にいいですけど……それより、足、大丈夫ですか。何だったんですか、さっきの? 何かに追われてたんですか」

「足はただの火傷みたいだから、どこかで軟膏でも買って塗るよ。それよりもあれは……祠に関係がある霊だと思う。環町の神社の裏から通じてる獣道があるでしょう? 由衣さんたちがそこに行ったのを私は携帯越しに見てて、そしたら」

「神社の裏の祠……」


 葵は顔を強張らせ、思い当たる節があると、強い意志を瞳に宿した。

「僕も、紬さんに一緒に来てほしいところがあります。いいですか?」

「もちろん。何でも言って」

 それから十分くらいで由衣が到着した。肩で息をしながら駆けてきて、紬の姿を確認すると安堵の笑みを浮かべた。

「よかった、心配したよ。……あぁ、足が。可哀想に、痛いだろう?」

 由衣は痛ましい顔で紬の足首に視線を向ける。


「悪霊は消えたみたいですけど、でも私、そっち行くのが怖くて」

「そうだね、紬君が境界のそばにいて本当によかった。君が葵君かな? 紬君を助けてくれたっていう」

「そう、ですけど」

 目を瞬かせて驚く葵に、由衣はお茶目なウインクをして通話中の携帯を見せた。

「全部聞こえていたよ。本当にありがとう」

「いえ別に……」

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