探偵助手はさみしがり -5-
「マジだ。どうなってんだこれ」
「や、やだー……」
紬は半べそを掻いて、急いで由衣たちのいる境界線の手前側に戻った。たった一歩で越えられる境界線は、今やクレバスの如く、紬と由衣を別つ亀裂だった。とにかく紬は由衣がいないと駄目なのだ。
あまりにも嘘くさい、環町に関する掲示板の書き込み。
紬は幽霊には辟易としていた。見たくもなくて、目を閉じても、夢の中にまで現れる執拗な幽霊もいた。やけになっても幽霊は紬の気持ちなど汲んでくれない。気がふれそうになって、どこかに逃げたいと思って。
誰もいない場所に――でもそれは、あまりにもさみしかった。由衣のいない町に一人で行くなど御免だったのだ。
それなのに今、紬は一人になりそうだった。椚原の期待のまなざし。紬は逃れるように由衣の背に隠れるが、椚原には一片の曇りもない。
彼もそう――一人が寂しくて香々美を探しているのだから。
「紬君、大丈夫かい? 無理なら、今からでも和也が応援を要請すればいいのだし――」
「悪いけど、こっちも代理ができるほど暇じゃねぇよ」
由衣の助け舟は園寺に送り返される。けれど紬は椚原の切羽詰まった視線に焼かれていた。紬が由衣という存在に救われているのと同じ。椚原の頼みの一糸は紬に結びついている。それが途絶えたら、あまりにも可哀想だ。
紬は喉に力を入れてぐい、と由衣を見上げた。
「……由衣さん、電話してもいいですか? テレビ電話。あと、メッセージたくさん送るのでこまめに返事してください」
「! それはもちろん、いいけど……無理しなくていいんだよ」
「……私も心配です、香々美さんのこと。それに――幽霊がいないって噂、本当だとしたら、数日くらいなら、由衣さんが電話出てくれるなら……それならさみしいけど、頑張れます」
むくれたような紬の言い方だったが、由衣は深刻な顔で紬を心配していた。
「……紬君が大丈夫っていうなら。それと、和也からの依頼も任せてしまうことになるけど、いいかい?」
「おう、頼んだぞ」
園寺は腕組みして頷く。
「はい。椚原さん、その依頼、私に任せてください」
「い、依頼――ですけど、え、もしかして」
椚原は言葉選びに首を傾げる。由衣は紬が作った名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、由衣探偵事務所の由衣孝彦と申します」
「由衣探偵事務所の探偵助手、遠香紬です」
「園寺和也、警察です」
「うそ!? え、僕、え、な、なんで、え、す、すみません、気づいてなくて、不躾なことを」
椚原は目を白黒させて仰け反った。口から泡を吹きそうな勢いで、椚原は全員を何度も見返す。由衣は受け取ってもらえない名刺を胸ポケットに戻すと、大丈夫と椚原を宥めた。
「名乗っていなかったんです、お気になさらず。続きは私の事務所で話しましょうか? 都内に事務所を構えていますので」
「ほんと、都内なのになんでここまで二時間半もかかったんですかね」
「二時間半!? 都内なら一時間半で着けますけど……」
至極当然という顔で椚原は由衣の言葉の裏を探ろうとするが、なんてことはない。紬はやはり踊らされていたのだ。ナビがぐるぐる回る前から幽霊の術中だった訳だ。紬は矢印を思い返しながら、幽霊の奴め、と口をへの字に曲げる。
気まずそうな椚原は、まだ何か言い損ねていることがあるのか、もじもじと大の大人らしからぬ動きで由衣の気を引いた。
「あ、あの、探偵さんに依頼する、その前に……行っておきたい場所があって……環町の北側の森なんですけど。いいですか?」
環町を囲うのは森と川。椚原は時計の文字盤を使って説明した。
「鉄道橋を十二時とすると、六時から八時が川に面していて、その他は全部森に囲われています。家内が最後に言い残した言葉では、九時の方角の森に、昔の言い伝えにまつわる祠があるので、それを見に行きたいと……境界の外側なんです。だからそこだけでも僕が探しておきたくて」
「なるほど、祠――ですか」
「紬ちゃんは止めとけば?」
園寺が肩を竦める。
「祠とかやばそうじゃん。それに、いるんだろ? 森の方ずっと気にしてた」
「……そう、なんですよね、なんですけど……」
一人になるのは嫌だ。
が、これにはさすがに由衣も目を瞑らなかった。
「紬君はここで待っていて。テレビ電話をしながら行こうか?」
「……ありがとうございます。電話、繋げててください」
椚原はすまなそうに頭を下げると、不安そうに森へ目をやった。
かくして、紬は境界線の手前で由衣たちを見送った。環町の内側に入らなかったのは、些細な抵抗だ。由衣と同じ場所を共有したかった。由衣の入れない場所に一人で行きたくなかったのだ。
後ろ姿の見える内から、早速電話がかかってきて、紬の携帯に由衣の顔が映った。
『ああ、もしもし?』
「顔近いです、由衣さん」
『――このくらい?』
由衣の顔が遠ざかって園寺と椚原も画面の端に見え隠れする。森の中に分け入った三人は、携帯で方位磁石を見ながら、境界の壁を伝って移動しているらしかった。携帯には雑木林と由衣の顔が映る。人の通る場所ではなさそうで、草をかき分けながら進んでいる音がした。
そうして揺れる画面を見ながら三十分ほど経った。
『あ、あれ。獣道だけど』
園寺の声がして、由衣が画面を外側に切り替えた。
子供が通れるくらいの幅で、土が踏み固められている細道があった。細道は環町の神社の裏手にあるらしく、線路の向こう側にはそれらしい社が見えていた。
森の奥まで続いている。
『この先に、祠があるんですかね……』
椚原は独白し、画面の前に出てくると、先頭を切って獣道を進んでいった。
今のところ、幽霊は見えない。由衣の顔ばかり見ていたから分からなかっただけかもしれないけれど。画面は歩くたびに揺れながら、先を急ぐ椚原の背を映していた。
境界から森に分け入って、五分ほどしたところ。道の両脇に壊れた石造りの灯篭が並んでいた。
「うわ……嫌な感じ」
人の負の感情が積り、空気が澱んでいる。本来は川が砂礫を運ぶように、その場に強く残された感情も流れてどこかへ消えてゆくものだ。けれど場所によっては流れの勢いが弱く、小石が沈殿したり、窪んだ角地の隅っこに、水の勢いに押しやられた砂が溜まったり。そういった感情の集まりやすい地というものが存在する。灯篭はあくまでその場に長くいたために気がしみ込んでしまっただけのようだが……祠が川の中の杭のように感情を引っかけているのだとしたら。
たとえ画面越しでも見ていたいものではない。しかもその場に紬の大切な由衣がいるとなれば、話はもっとひっ迫する。
「由衣さん、そこ行かない方がいいです」
自分の声は予想以上にこわばっていた。「行くな」と言うだけで精一杯で、それ以上の理由に言及できるほどの余裕はなかった。
『椚原さん! 紬君から、これ以上は止めておいた方がいいと』
由衣が椚原に呼びかけるが、彼は気が急いているのか、どんどん奥へと行ってしまう。見兼ねた園寺が椚原の肩を掴んだ。
『これ以上は危ないっすよ』
『? なら、尚更行かないと、この先で家内が、香々美がもし、いたら――!』
そう。遊びではなく、救助なのだ。振り返った椚原の瞳は、気圧されるほどに真剣で切実で、止められるものではなかった。
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