探偵助手はさみしがり -4-


 そこは紬の目指していた環町の入り口だった。一車線の道路が鉄道橋のアーチの下に続いている。その手前には、昔の高速道路の有人料金所のような関所があり、中には帽子を被った老爺がいた。幽霊かと思ったが、なんてことはない人間だった。

 環町へ続く道路を走っているのは紬の運転する車だけで、関所に着くと中から顔を出した係員の老爺が手でバツ印を作った。

「ダメだよ、お嬢さん。ここは町に住む人以外は車では通せないことになってんだ」


「そうなんですか、それは……中に入れないから、ですか?」

「霊感があれば入れる。けど、ない奴が車を飛ばして入ろうとしたら大事故だ」

 老爺は至極真面目な顔で言っているが、紬にはまだ信じられなかった。地域復興のためにそういう芝居をして、町全体をエンターテインメントにしている可能性だってある。紬は老爺にぺこりと頭を下げた。

「すみません。えぇと、じゃあ……バックしても?」


「ああ、中に入りたいなら近くにコインパーキングがあるからそっちに停めてくれ。そこの道を左に行ったとこにある。観光客はみんなそうしてるよ」

「ご親切にありがとうございます」

 紬が車内を見渡すと、案の定後部座席にいた幽霊たちは忽然と消えていた。

 コインパーキングはすぐに見つかった。既に二台ほど停まっており、紬は奥の端に車を停めた。結局、探偵事務所から環町まではなんやかんやで二時間半もかかってしまった。車を降りると紬は背伸びをし、大きく息を吸った。木の匂いと水の匂い。近くに川でもあるのだろうか。


 紬の携帯には着信がたくさん入っていた。

 結局、紬の車に園寺は乗っていなかった。幽霊は園寺の姿を真似てまで、紬を環町へ案内したかったのだろう。紬が推察するに、あの幽霊たちはどんな手段を使ってでも環町に入ろうとした。何も知らない外部の人間は、関所の係員に止められなければ、何も知らずに車で環町に突っ込む。幽霊はそれを狙ったのだ。

 残念だったね、と心の中で毒吐いた紬は園寺に電話をかけた。園寺は今もあの公衆トイレに取り残されているのだろうか。


「もしもし」

『やっと繋がった! 紬ちゃん大丈夫? 何があった?』

「今、環町の前にいます。園寺さんに化けた幽霊に気付かなくて」

『わーまじか……え、俺にそっくりだった? キモ』

「それはもう。完全に騙されました」

『笑えねー……もう大丈夫なのか?』


「はい。悪霊は環町に入ろうとしたみたいですよ。でも失敗して消えました」

『あーそういう……まあ無事ならよかった。俺も今からそっち向かうから、安全な場所で待ってて』

「了解です。すみませんでした」

 それからほどなくして一台のタクシーが現れる。中から出てきた園寺は紬を見つけると明らかにほっとした顔で空を仰いだ。

「あー……お疲れ。じゃ、行こうか」


 園寺は事務所の車に積んだままだった荷物を全部取り出すと、紬にキャリーケースを手渡した。

「ありがとうございます。あの、もし中に入れたら、園寺さんはどうするんですか?」

「俺は一旦トギさんに報告しなきゃなんねぇし。来るなら俺だけじゃなくて一課の奴ら何人か連れてくるし。今日は下見だな」

「車なしじゃ帰れませんよ」

「そんときゃタクる」


 でこぼこの道はキャリーケースを引くと予想以上に音が出る。青空の澄み方と、空気の水っぽい冷たさを肌で感じると、紬はこれからの不安も薄らぎ、気分が良くなってきた。園寺は両手をコートのポケットに突っ込みながら、あたりを物珍しそうに眺めている。園寺の見ている方向には無残にも破けた服を着た少女がいたが、やはり園寺には霊感はない。紬は目を合わせないように細心の注意を払って周囲を観察した。さっきの少女の他にも――たくさんいる。木々の影に溶け込んでいるようで、異様な気を放っているからすぐに分かる。みんな一様に衣服が破けていた。


 環町に幽霊が入れないというのは本当なのかもしれない。環町からあぶり出された幽霊たちは、鉄道橋の先を私怨の混じった瞳で眺めていた。

 紬は嘆息して環町の方へ視線を戻す。鉄道橋のアーチの手前に、徒歩で来ている男性が立ち竦んでいた。幽霊ではない、生身の人間だ。

 ……入れなかったのかな。

 由衣と園寺もその男性を見て自然と足を止めた。

「失礼……貴方は、この先へ?」


 由衣が一番に声をかける。男性の歳は三十代半ば、短く切り揃えられた黒髪と緑のマシュマロみたいなダウンコートを着ている。男性は紬たちに気が付くと、振り返ってしどろもどろに返事をした。

「あぁ、どうも……」

「もしかして入れなかったんですか?」

「……えぇ、残念ながら。やはり私には霊感というものがないようでして」

 男性は頭を掻きながら悲しそうに目を伏せた。


 入れない?

 紬はまさか、と鉄道橋を見上げる。そんなことが本当に起きるのだろうか。

 噂話に乗せられてきた風でもなさそうな男性は、本気で考えあぐねている。由衣は依頼人と話す時の声のトーンで、優しく話しかける。

「なぜ、ここへ?」

由衣の声はどんなに警戒心を持った人でも、いつの間にか内側へ招いてしまう情け深い声色だ。紬も男性を応援する気持ちで、一緒に尋ねた。


「中に何かあるんですか? 入らなきゃいけない理由とか……」

 男性は警戒心を解いて、半ば縋るような顔で赤裸々に語りだした。

「……僕は、椚原武人くぬぎはらたけひとといいます。実は……家内が、年末にこの中へ入ったまま帰ってこないんです。連絡も取れず、どうしているのかと……三が日を過ぎたら帰ると言っていたのに、ぼ、僕はもうどうしたらいいのか」

「警察に届けは?」

 園寺が口を挟む。


「いいえ……まだ。できるだけ大事にしたくなくて、まずは自分で探そうって思って……だって、家内の判断で向こうに留まってて、何かがあって携帯を失くしてしまったとか、そういうことも考えられるし。そそっかしい人なんです」

「じゃあ、よければ私たちが探してきましょうか」

 そう言ったのは、一番環町に入れなさそうな由衣だった。


 環町に入れるかどうか。明確な境界線は鉄道橋のアーチのちょうど真下、簡素な白い立札が刺さっている場所らしかった。手書きの黒文字は『ここから環町』とだけ。

「小さな立て札ですね。分からなくて事故する人はいないんでしょうか」

 言いながら、紬は一番に足を踏み出した。

 境界線をまたぐとき、耳元で寂しそうなすすり泣きが聞こえたような気がしたが、それ以外は特に不思議なことは起きなかった。


 一歩跨いで、後ろを振り返る。椚原の驚いた顔が、やがて笑みに変わる。

「助かった! いや、霊感ある人は本当に入れるんですね。どうか僕の家内――椚原香々美くぬぎはらかがみを探してきてもらえないでしょうか?」


「由衣さん、早く」

 なんとなく、一人で別の場所に立っているのは嫌だった。由衣も紬に急かされて境界線を跨ごうとしたが、持ち上げた足が先へ進まない。

「……驚いたな。本当に壁があるみたいだ」

「え! 嘘でしょう、私一人だけなんて……は、早く園寺さんも」

「や、俺も無理じゃねぇかな」

 園寺はポケットから手を出すと、矯めつ眇めつ見えない壁まで手を伸ばす。見えない壁のパントマイムみたいな恰好で、園寺は「うおー」と声を上げた。

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