探偵助手はさみしがり -3-
由衣探偵事務所は今のところ、依頼人の予約はない。新年早々探偵事務所に駆け込む人がいないのはいいことだが、要するに暇なのだ。紬は数日分の衣服をキャリーバッグに詰めて、事務所の車に三人で乗り込んだ。
「二時間くらいで着くみたいですけど、コンビニとか寄りますか?」
「あ、じゃあ俺コーヒー買う」
即答する園寺に少し呆れる。
「さっきコーヒー飲んだじゃないですか。カフェイン中毒だなぁ」
「まだ今日は二杯目だろ」
運転は助手の務めだ。紬は由衣の運転を思い出しながら、真似るように背筋を伸ばした。由衣の運転はとても丁寧で滑るように走るのだ。
紬は五分ほど走った先の大きなコンビニに車を止める。由衣は車に残ると言い、園寺と二人でコンビニに入った。園寺が買ってくれるというので、好意に甘えてチョコレートドリンクを選ぶ。車の運転には甘いものが欠かせない。園寺は食べきれないほどの菓子をカゴに放り込むと、Lサイズの挽きたてブラックコーヒーを手に満足げな顔で車に戻った。
それから紬の運転する車は一時間半ほど東京らしい大通りを走った。やがて道路は一車線になり、山道へ差し掛かる。
少しだけ開けた窓からそよぐ風が車内の空気をみずみずしい緑色に変える。助手席に座る由衣は気持ちよさそうに目を閉じて、大学時代によく聞いていた歌を口ずさんだ。
「あー、紬ちゃん。サービスエリアかなんかある? 飲み過ぎた」
園寺が申し訳なさそうに頭を掻く。バックミラー越しに見たコーヒーは既に空だ。
「多分あると思いますけど……我慢できます?」
「大丈夫大丈夫。焦んなくていいから」
紬は青い道路標識を見ながら口を窄める。あまり車通りの多くなさそうな道だ。荒れ地と、木々が乱立するばかりの景色がもう数分続いている。望み薄かとも思えた。
由衣が窓を突く。
「あそこにあるよ」
車の速度を落として由衣の指す方向を見る。寂れた小さなパーキングエリアだ。公衆トイレと公衆電話があるだけ。二台分しか駐車スペースはないが、そもそも人気がない。紬は車を止めると、一応自分も行っておこうと車を降りた。
様々な匂いが混じり合う都会と違い、山の近い無人のパーキングエリアは各段に空気が綺麗だ。紬は深く深呼吸して背伸びをする。小さなパーキングエリアだが、管理している人はいるのだろう。公衆トイレは長らく使われておらず、幾分か湿っているトイレットペーパーが備え付けられている。電気も切れていないし、山の近くにしては虫の息吹も感じない。
正直、怖くはあった。
公衆トイレは幽霊が潜む絶好のスポットだ。個室に、隅の暗がりに、濁った鏡の向こう側に。紬は恐怖心から目を泳がせて、隠れているはずの姿を探る。
個室には埃の溜まった蜘蛛の糸が力なく垂れ下がり、暗がりに目を凝らすと吹き残したモップの黒い跡が目に付く。鏡を睨むと神経質そうな自分がしかめ面をしているだけ。奇妙なことに、こんなにもいそうな場所に、誰もいないのだった。
紬は肩透かしにあった気分で車に戻る。二人とも既に車の中で話し込んでいて、紬は運転席に座ると軽く声をかけた。
「じゃ、出発しますね」
車のエンジンもちゃんとかかる。アクセルペダルが心なしか軽い気がした。気のせいとは思いつつも一応、助走の段階でブレーキを踏んだが問題なく機能する。紬はチョコレートドリンクを飲んでやっと気持ちを落ち着けた。
どうやらただの幸運だったらしい。
紬は顔を上げ、バックミラー越しに後ろから車が来ていないかを確認しようとして、凍り付いた。
いる。
後部座席に、園寺の隣に座っている。輪郭のぼやけた何か。黒い塊は段々と人の形を成し、紬の姿を真似たのか、女の形になっていく。
『右……』
うなじが粟立ち、冷気がぞわぞわと全身を這う。幽霊が視えるのは紬だけ。尋常じゃない紬の表情に何かを察した由衣が深刻な顔をする。由衣には何も見えていない。園寺は幽霊の隣で眠り込んでいた。
やはり、そうだ。この幽霊は認識したことで顕現した。幽霊の視える人間を敵視する悪霊だ。紬をどこかへ誘導しようとしている。
「由衣さん、どうしましょう……幽霊が道案内してます」
「! まずい雰囲気かい?」
由衣の表情にピリリと緊張が走る。
「悪霊です。園寺さんの図太い神経には感服します」
「紬君は幽霊の道案内には従ってはいけないよ。言われた道と逆を行くんだ」
由衣はそう言って後部座席を振り返り、園寺を起こそうと声をかける。
「了解です。……こういうのって、従ったら、自分が死んだ場所とか、強く未練を残してる場所とかに連れてかれるんですよね……」
もしくは、紬が死ぬ場所へ。
紬は捨て鉢な口調で空笑いをした。甘ったるいだけの口腔はカラカラに乾いている。
車を止めるべきだろうか。ナビを見ると画面は暗転している。
紬は早く安全な場所まで走り抜けようと、アクセルを少しだけ強く踏み悪霊を無視して運転に集中した。
すると、後部座席からもぞもぞと衣服が擦れる音がした。由衣が「よかった、起きた」と前に向き直る。
「ん……何この空気」
「! 園寺さん、隣視えますか」
「隣? ……何もないけど」
まだ半分寝ぼけた声色だ。暗く淀んだ空気には気付いたようだが、肝心の悪霊は園寺の目に映らないらしい。
「悪霊が相乗りしてるんですよ」
「げ、まじかよ。てかナビ壊れてるじゃん、道大丈夫?」
「駄目です。どこかに誘導しようとしてるみたいで」
「まじ? あー、ちょっと待って……携帯は使える。俺が道案内するから」
「よかった……! 助かります」
どうにか切り抜けられそうで、紬はほっと胸を撫で下ろした。
悪霊が認識されたことに怒っているのなら、無視していればそのうち消えるかもしれない。それよりも問題なのは、紬が変だと気付く原因になった車の行き先だ。悪質な悪戯は、時に人命を脅かす。
「まず、右。それから……」
『左……』
「右」
やっぱり。
紬は園寺の道案内に沿って、幽霊の言う方向とは逆にハンドルを切った。両脇に木々が多い茂り、日中とは思えない暗さに車は自動で点灯し、薄暗い道を照らしている。幽霊の道案内は園寺が示す先とは全く反対だった。
紬はいくばくか安心して、運転に集中した。バックミラー越しに見える幽霊は陰鬱としている。普通なら隣に幽霊が座っていると知ったら身を硬直させるものだが、園寺は全く平気そうな顔で携帯を眺めている。
『右……』
「左」
『左』
「右」
紬の背中に嫌な汗が伝った。
木々に日光を遮られ、車のライトが点くほど薄暗い道。ナビの明かりもなく暗い車内。園寺は携帯を見ているのに、顔は液晶の光に照らされていない。暗闇の中で園寺は何を見つめているのか。幽霊と全く逆の道を指示するが、確か最初の道案内では、同じじゃなかったか。
由衣も気付いて、眉を顰めている。
「あのう、園寺さん……何を、見てるんですか」
紬は強張った声で尋ねる。パニックに陥りかけるが、横に座る由衣が紬を一糸、繋ぎ留めていた。園寺は紬の問いに答えず、平坦な声で繰り返す。
『左』
「右」
園寺はバックミラー越しに紬を見る。何の感情も宿していない真っ黒な目。
『目の前』
「まっすぐ」
紬はハッと前を見て、胸を撫で下ろした。
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