第一章

探偵助手はさみしがり -1-


 宇衛真白うえましろは目覚ましを止めたら起き抜けにカーテンの中へ頭を突っ込んで、朝日を浴びるのが好きだ。眩しくて目を閉じて、さっきまで見ていた夢を反芻する。そうしているうちに、やがて現実が追いついてきて、目を開けると羨望のいい部屋からは町の隅まで見渡せる。

 真白の生まれる前からずっと、止まらない列車は輪を描き、町の境界線をぐるぐると回り続けていた。


 環町かんちょうの列車は悪いものを祓っている。


 線路は結界を描き、列車は絶え間なく結界をなぞる。外からの侵入者を環町へ招かないように、と真白は聞き育っていた。列車は駅のホームで減速し、観覧車に乗り込むみたいに人々は急いで乗降し、列車はホームを過ぎてまた加速する。毎日変わらない列車を眺めていると、真白の不安は宥められ、新しい一日が始まったのだと、夜に区切りをつけられた。


 真白は身支度を済ませて一階へ降りていく。ダイニングでは母がちょうどおせちの蓋を開けていた。

「お父さん、お母さん、あけましておめでとう」

「おめでとう」

「あけましておめでとう。真白、このおせちすごいから見てみて、伊勢海老が入ってる。お父さんに感謝しなくちゃ」


 母は父が取り寄せたおせちをきゃあきゃあ言いながら眺める。父は満更でもなさそうに歪む口元を、新聞紙を大きく開いて覆い隠した。

「本当だ、すごい……あおいは?」

「まだ起きてこないわよ。起こしてきてくれる? じゃないと先に食べちゃうからって」

「分かった」

 弟の葵は中学一年生で真白と二つ違いだ。真白は葵の部屋をノックするが、まだ寝ているのか反応がなかった。いいや、と部屋の扉を開けると、驚いた顔の葵がちょうど灰色のパーカーに腕を通していた。


「! あけましておめでとう」

「……それ、今言う言葉?」

 葵の部屋は真白の部屋とは真向かいの北側だ。薄いレースのカーテン越しに、学校や森が見える。

「おせち、お母さんが早く食べたいって」

「今行くから。別に、先に食べてても構わないけど」

「そう? じゃ、葵の分は残しとくように言っとくね」

「…………もう降りるけど」


 新年一日目からどことなく不機嫌な葵は、真白を追い越して階段を降りていった。

 着替えを見てしまったからだろうか。返事がないと分からない、と真白は心の中で言い訳を呟きながら、葵の後を追う。

 宇衛家は必ず全員で食卓を囲む。母は大振りの伊勢海老を、父は昆布巻きを、葵は数の子を、真白はローストビーフを。お重には目移りするものばかりが詰め込まれている。次はどれを食べよう、と皿に取ったばかりのローストビーフのことも忘れて、真白は賽の目に区切られた料理に目を光らせた。


 母がエビの甲羅を剥きながら、おもむろに話し始める。

「今朝、庭に出た時にね、丘の上交番の佐伯さんがちょうど来て教えてくれたの。丘の麓に住んでる田中さんっていたでしょう? 昨夜交通事故で……奥さんと旦那さんと、小学校五年生の女の子、みんな亡くなったらしいわよ」

「えっあの子死んじゃったの?」


 真白は思ったより大きい声が出てしまったと、手のひらを口に当てた。宇衛家は代々環町の地主で、環町の人たちはみんな宇衛家を頼っている。町長とは違うが、地主には地主の責任というものがあるのだ。暗黙の了解で、佐伯巡査も環町の出来事を逐一報告しに来てくれる。

 母は不安げな顔をして真白を見た。

「仲良かったの?」

「ううん、見かけたことあるだけ」

 母は納得して止めていた手を動かす。

「そう……佐伯さんが気を利かせて家に教えにきてくれたのよ。伝えておいた方がいいと思って、って……希衣きいちゃんって言うんだったっけ、本当によくできた子だったから……可哀想に」


 その声を遠くに感じる。

 田中希衣。この環町で天才小学生として名を馳せていた、天真爛漫な女の子。華奢でいつもツインテールをしていた。真白はあまり知らないが、希衣は小学五年生にして既に中学生の勉強を終えていたと聞く。賢くて明るい……みんなに好かれる子だったと。


 宇衛家の正月は平凡だった。取り立てて何かが起こるわけでもなく、何かの兆しが見えるでもなく。それでも、過ぎたるは猶及ばざるが如し。安穏とした日々で満足していた。

 ……少なくとも真白は。

「今年は本当に本厄なのかもしれないわね……その田中さん達が事故を起こしたのって、川を跨いでた橋が、急に……」

 痛ましそうに言葉を詰まらせた母に代わり、父が後を続ける。


「森側の古い橋か。神社に行こうとしてたんだろう、大通りは混むから」

「そうなのよ。だからみんな噂してるの。だって先月の中頃に占い婆が予言してたでしょ? それも本厄の一種なんじゃないかって」

 円を描いた結界に囲われ、霊感のある人しか入れない不思議な町。真白たちの住む環町には、綿々と受け継がれてきた言い伝えがある。



『本厄の年に森よりがみ打ち出づる。隙を作るべからず。下駄と衣隠して大人しくしたり給へ。然らば災厄降りかからん』



 本厄はいつ、堕ち神は何をしに来るのか。

 真白は何も知らなかった。だからこそ、言い伝えは不気味で恐ろしかった。

 これまで真白は本厄を知らずに過ごしてきた。しかし町がクリスマスに染まっていた頃。環町の有名な占い婆が突然予言したのだ。



『明くる年、堕ち神が現れる』



 占い婆は、全く関係のない占いをしてもらいに来た少年に、突如として怒鳴りつけたという。白内障を患っている占い婆が半狂乱で唾を飛ばしながら暴れたため、少年は心臓が止まるかと思ったと話していた。

 堕ち神が現れたら。何が起こるか分からない。真白は両親に尋ねたが、詳しくは教えてもらえなかった。ただ、両親はとても怯えていた。前回の本厄は十数年前のことだ。長い歳月が過ぎたにも関わらず、両親の恐れ方は、砂塵に埋もれることのない鮮やかな恐怖だった。


 両親だけではない。前回を知る人たちはみんな恐れていた。占い婆の館には長蛇の列ができ、神社には参拝客が押し寄せた。普段は根無し草の神様も今回ばかりは神社に出ずっぱりだ。環町中が静かなるパニックに陥り、大人たちの竿竹で星を打つ姿が散見された。本厄の詳細は分からずとも尋常ではない空気に、子供たちもただ事ではないと不安が伝播した。

 そして明確な打開策もなく、環町は新年を、本厄を迎えたのだった。


「あまり家を出ない方がいいのかしら。無事に一年を終えられたらいいんだけど……」

 母は独白と共に手を止め、重たいため息を溢す。それからすっかり剥かれた伊勢海老を頬張って、満面の笑みを浮かべた。

「これ美味しい! 葵、食べてみて」

「自分で食べられるから」

 葵はやはり不機嫌そうに、母の差し出す伊勢海老を押し返すと自分で甲羅付きのをとって剥き始めた。真白は頭をもがれた海老のつぶらな瞳に罪悪感を覚えたが、素知らぬふりをしていた。


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