第2話 聖女としての旅立ち
都合のいい夢を見ているのでなければ、妹による悪戯にちがいない。
私はしばらく、本気でそう思い込んでいた。
だから、しごく平穏な気持ちで種明かしの時間を待っていたのだけど、それはいつまで待っても訪れなかった。
むしろ、婚姻締結への準備は着々と、かつ性急に進められていく。
まずは婚前に親睦を深めるという目的で、一か月、王子の屋敷で同居生活をすることになるらしい。
それも、早ければ早いほどいいとのことで、次の日には身体検査をするため医師の方がやってきて、また次の日には役人が数名、挨拶に来られた。
ここは王都から遠く離れた遠方だと言うのに、だ。
いよいよ冗談ではないらしい。
そう気づいたときには、もう出立の夜を迎えていた。最初の通達から約一週間のことであった。
「アンナさん、本当に行くんだね?」
部屋の荷物整理を手伝ってくれていた甥・レッテーリオが、作業の手を止めて、少し俯き加減に言う。
彼は、妹・メリッサの長子、つまりはステッラ家の世継ぎだ。
とはいえ、まだ5歳にすぎない。
誰かと別れることは、彼には辛いことらしかった。
「そんなあからさまに落ち込まないで、レッテーリオ。出来の悪い伯母が一人いなくなるだけのことだから」
私は腰より少し低い位置ぐらいにある彼の頭に手を伸ばす。
彼は恥ずかしそうに腰元で拳を握ってこそいたが、素直に撫でられてくれた。
ここでの生活において、彼は特別な存在だった。
彼の母であるメリッサの言いつけもあったのだろう。
ステッラ家の人々は、私を同族としてではなく、一人の使用人として扱った。呼び捨てにされるのも、こき使われるのも当たり前だったのだが、レッテーリオだけは違った。
伯母として接してくれて、いつも親しげに接してくれた。
彼の存在にどれだけ救われたことか、知れない。
「ほら、そんな悲しい顔をしないで。金輪際会えないわけじゃないんだから。ね? それにもう行かなきゃいけない」
「……僕がもう少し大人なら、アンナさんと結婚できたのに」
あら、なんて可愛いことを言ってくれるのかしら。
お世辞だとしても、たとえ法的にできないとしても、嬉しい言葉だ。
「ありがとうね」
私はまた彼の頭を撫でて、それから片付けを再開した。
と言っても、時間はさほど要さなかった。
なぜなら、私が5年以上も暮らしてきたこの部屋は、使用人室であり、最低限の広さしかない。
そもそも持ち出す荷物だって、そう多くはないのだ。
小さなころから持ち続けているお守りを入れて、きんちゃく袋の口をしばれば、もう用意は済んでいた。
最後に、がらんとした部屋を振り返る。
「ありがとうございました」
こう言ってはみたものの、感慨などは湧いてこなかった。
最後までこの部屋は、自分の居場所になっていなかったらしい。
「じゃあね、レッテーリオ。きっとまたすぐに会えるわよ、泣かないで。強くなりなさい」
「……はい」
目端で涙をこらえる甥とは、残念だけれど、ここでお別れだ。
彼は見送りに出てくることはできない。
その理由はもちろん、
「遅いわよ、アンナ。もう馬車が来ているというのに、このあたしを夜中に玄関の外で待たせてどういうつもり? あんたって最後まで片付け一つできないの? ほんと、情けない姉ね。さっすが妾の子供ね」
メリッサの目を気にしてのことだ。
屋敷の正面玄関を開けたところ。メリッサは仁王立ちと腕組みで、まるで門番かのように一人、そこで待ち受けていた。
彼女は私をあくまで使用人として扱うよう、ほかの家族に言いつけている。それを破った場合には、大声をあげて叱ったこともあったらしい。
そのためレッテーリオと仲がいいのも、公には秘密にしているのだ。
「……すみません、メリッサ様」
もはや『様』づけを強要されている。
こんな売れ残りと姉妹だと思われるのが、恥ずかしいらしい。
……まぁ、私にしてみれば、どうでもいいお話なんだけどね?
それで気が済むなら、と言われるとおりにしている。
「ふん。口ではそんなこと言って、内心では馬鹿にしてるんじゃないでしょうね?」
「いえ、そんなことはこれっぽちもありません」
「そりゃそうよね、ただのまぐれ。神様のお遊びで聖女になっただけだもの。あんたごとき残り物が王子の妃だなんて馬鹿らしいったら、ありゃしない。
このあたしだって、王子を捕まえられなかったのに……なんであんたが。あぁむかつく。ほんと世も末だわ」
吐き捨てられる言葉は刺々しい。
まるで呪いのようだが、私にはもう効かない。
なぜなら、すでに呪われきっているからだ。自分でも、世も末だと思っているくらい。
だから、ただ薄ら笑いを浮かべてなにも言わずに聞く。
結局これが一番、癇癪を起されないで済むのよね……。
「えぇ、私もいまだに信じられません」
「ふん、そうやって低姿勢でいたらいいと思ってるんでしょ? これだから妾の子は」
ため息をつかれるのに、ただ頭を下げる。
こうして罵られるのも今日で最後と思えば、なんてことはない。
眉間だけではなく、頬にまで皺を寄せ、尊大な態度を取る妹をただ見つめる。
名残惜しい、とはもちろん思わないが、怒りも覚えない。
思い返してみても、姉妹らしく接したことはほとんどなかった。ただ幼い頃から何度も見てきた妹の険しい顔を思うと、過ぎてしまった長すぎる年月を感じる。
小さかった彼女も、今は24。
6年前に公爵家に嫁いで、今や子供すらいる。
「どうせ、こんなの愛のない白い結婚よ。愛されるわけがないわ。
運よく聖女になったからって、あんた今28でしょ? 王子は私と同い年、あんたみたいな売れ残りに振り向くわけがないわ。
しかも、あんたみたいな根暗で愛嬌もない女ときたら、王子もさぞ残念がってるでしょうね。このあたしが猛アピールしても落とせなかった王子よ? あんたのことなんて、どうとも思ってないに違いないわ」
「……そうでしょうね」
この結婚はあくまで規定に則って執り行われるものだ。
こんな事態になり初めて知ったのだが、聖女が現れた場合、時の王子の正妻として迎え入れなければならないと、国家の規定で決まっているらしい。
たとえそこに愛がなくとも、これは決まり事だ。
私ごときが異論を唱えて変わるほど、この国の歴史は浅くない。
「ま、せいぜい色仕掛けでも頑張ることね。その髪や貧相な身体じゃ無意味でしょうけど」
そんなことは言われずとも百も承知している。
婚姻相手は、今をときめくシーリオ王家の第一王子・シルヴィオ様。
その優れた容姿は、一目見ただけで女性を虜にしてしまうほどだと聞くし、佇まいも次代の王らしく風格があるとか。
いつも飄々としていて、ほとんど笑わないなんて噂も聞いたことがあった。
過去に一度、貴族学校で行われたピアノの演奏会でお会いをした際、会話をした覚えはあるが、それきりだ。
その頃の私は15歳で、彼は少年だった。
姉妹たちの前座として弾かされたにすぎない私の演奏も、無邪気かつ真剣な目で聞いてくれていたっけ。
彼はまず覚えていないだろう、些細な出来事だ。
そんな出会いからかれこれ10年以上。
よもやその王子の元へ、妃としてお嫁に行くことになろうとは誰が思おうか。
一見奇跡みたいなめぐり合わせだが……、妙な期待などはいっさいしていない。
近くで眺められるだけで十分。それくらいの軽い気持ちだ。
「ただ、迷惑をかけないように振る舞ってまいります」
「ふん、そうしなさい。……あぁ、もうここにきてイライラしてきた。あんたのやってた仕事、どうしてくれるわけ?」
「一応、他の方々に引き継ぎはしておきましたから」
その使用人の方たちは、ここにはいない。
私の見送りなど必要ないというメリッサの意向で、他の業務を振り分けられているのだ。
だから、見送りはメリッサ一人だ。
惜しむ別れもないので、早々に立ち去ろうとして、玄関柱の下、魔道照明に照らされて伸びる小さな影に気付く。
どうやらレッテーリオは、最後まで見届けてくれようとしていたらしい。
……なんて、いたいけな子なのだろう。メリッサとは似ても似つかない。
きゅんと胸が締められた私は、メリッサに気付かれないよう、ちいさなお辞儀で彼に応える。
と、そのときだ。
正面玄関の扉が開き、中からメイドが一人飛び出てくる。その胸に抱えられていたのは、立派な化粧箱だった。
メリッサはそれを受けとると、受け流すように私へと手渡した。
「えっと、メリッサさま。これは……」
「なにも持たずに行ったら、王子に失礼でしょう? 出来も出自も悪いあなたよ? 存在だけでも失礼なんだから。貢ぎものよ、そのまま渡しなさい」
「そうですか。メリッサさま、ありが――」
「必ず、あんたが調達したことにして渡すのよ? そうでなくちゃ、格好がつかないから。もちろん、渡すまで開けてはならないわ」
一応、実家・リシュリル家の面目を保つため、配慮してくれたのかしら?
今日に至るまでの超展開についていけず、手土産のことなどすっかり頭から飛んでいた私は、礼を言って、それを受け取ることとした。
「辞める使用人に、もう用はないわ。早く行きなさい、顔も見たくないわ」
舌打ちとともに、彼女はこう吐き捨てる。
さらには肩を強く突いて、馬車の方へと押し出した。
ひどく乱暴なやり方だ。
普通なら怒っていい場面かもしれないが、私はもうとうに諦めているし、まったく傷つきもしない。
姉を従えている自分は、より高貴で美しい。
彼女がそんな自尊心を満たすためだけに、私を雇い続けていたことだって、知っているのだ。
知ったうえで、残された私には他に行く先もなかったから、こうして仕えてきたのだ。
最後まで使用人として指示に従うこととして、身をひるがえすと馬車に乗り込んだのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます