第6話

「夏目さん?」


「うん」


「ここ、病院じゃないですね」


「そうだね、海だね」


「ですよね……」


 ため息をついて、小春ちゃんは振り返った。


 さて、病院に行くと言って海に女の子を連れて来た場合、誘拐になるだろうか?


 答えはどっちでもいい。このしなびたおっさんに、失うものはないからな。


「痛みが治まったらどこに行こうが俺の自由だからね。無理に着いてきたのはきみだし」


「確かにそうですけど……それにこれはなんですか」


「スタバのフラペティーノ・・・・?」


チーノ・・・です。違います、お腹が痛い方が何してるんですかって聞きたいんです」


「スタバ飲めばテンションが上がるかと思ってな」


「? 夏目さんが?」


 女子の好きなものなんて知らんけど、スタバがあれば喜ぶだろうと思ったが、違ったか?


「……あなたって本当に不思議な人です」


「あん?」


「学友は、私のことを冷血人形だって避けるんですよ。でも夏目さんは普通に話してくださいますね」


「あー。なんだ、年の功ってやつかな?」


 いつも隣で鼻歌聞いてるからとは言えないな。


「それに冷たいなんて思わないよ」


「え?」


「あんなに心のこもった温かいシチューを作れるんだし。それに、小春ちゃんは表情豊かだと思うけどなあ」


 特に家ではスゴイ豊かですよ、きみ。


 それに、なぜか外ではクールに振る舞ってるみたいだけど、抑えきれずによく漏れてるしな。


「えぇっ!?」


 キリッとした顔が一変して真っ赤になり、目を白黒とさせている。


「ほらね、今とか」


「! これは、その……というか、こ、こはるちゃんって……」


「ごめん。セクハラだった?」


「いえ、その……小春ちゃんで……全然、お、お願いします……」


 小春ちゃんは焦りながらも、慎重深くスタバをすすった。俺みたいにズルズルと音を立てないところとか、育ちがいいなと思う。


「本当は私、今日、学校に行きたくなかったんです。それで夏目さんに便乗すれば、行かない言い訳ができるって気持ちがありました」


 うん、知ってる。


 そこを無理矢理たきつけたの、俺だし。


「私って本当にどうしようもないダメ人間ですね。ガッカリしましたよね、こんな、サボりだなんて……」


 スタバを持つ彼女の手に力が入っていた。


 ずっと真面目に生きてきたんだろうなと思った。


 慣れないサボりに、罪悪感でつぶれそうな心を無理に抑えつけているのだろう。


「嫌ならサボったっていいだろう。小春ちゃんがダメ人間なら、俺は人間のクズだぞ……いや、事実そうだけど」


「夏目さんはそんな……」


「金もない、資格も経験もない、彼女もいない30代だ。終わってるだろう? それでもおっさんは生きてんだよ」


 人生にはほとほと嫌気がさしていたけどな。


「小春ちゃんはもっと息を抜いた方がいい。根詰めたって視界が狭まるだけだ」


 そんな俺だけど、最近は部屋できみのかわいい鼻歌を聞いて、きみと話すようになって。


 日々すさみ続けていた心のもやが、春が雪を溶かすように、少しずつ溶けていったんだ。


「視界が狭まったときに人間は正しい判断ができなくなる。どんなに頭がよくてもだ。だからこうやって適度にサボって、視界を広げてから考え直せばいい」


 これは恋愛感情とは言わない。さすがに俺もわきまえている。


 ……これはもっとキモい話かもしれないけど。


 きみが一喜一憂して暮らしているのを隣の部屋で感じているだけで、俺がどれだけ救われたか。


 暗闇にうずくまっていた俺を、小さなライトで照らしてくれたきみに、少しでも力になりたいって思ったんだよ。


「寄り道したっていい。遅すぎるなんてことは絶対にないから」


 ……俺、見事に自分の首を真綿で締めたな。


「そうですね、もっと視野を広く……」


 手元から顔を上げた小春ちゃんは、そのまままっすぐに、目の前に広がる海を眺めた。


「夏目さんは自分を下げておっしゃっていますが、とても優しくて素敵な方だと思います」


「おいおい、やめてくれ。おっさんをからかうなよ」


「それに、今はサボってよかったと思っています」


「そうか、それはよか――」


「夏目さんって、彼女がいないんですよね?」


「……………おお?」


 冷徹な仮面は、はらりと落ちて。


 彼女のきれいな顔が優しく緩んだ。

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