第5話

 ◆




「先日はありがとう。シチュー美味しかったよ」


「お口に合ってよかったです」


 帰宅してきた小春ちゃんを呼び止めて、借りていたタッパーを手渡した。


 相変わらず高貴な薔薇のようにツンツンしながら受け取るが、顔をそらした彼女の口元がニヤついているのが見えてしまう。これは珍しいリアクションだ。


「それでは」


 再びスンとし、小走りで自分の部屋に入って行った小春ちゃんの、「タッパーにお菓子が入ってるーーー!?」という歓喜の声が聞こえたのは、ちょうど別れて30秒後だった。


 喜んでもらえたみたいでなにより。


 俺はこっそりと笑った。




 さて、最近心の中で小春ちゃん呼びになった俺だが、かわいい鼻歌に癒される俺の、リスペクトを込めての“小春ちゃん”である。


 もう彼女と関わることはないだろうが、鼻歌にたまに癒されたらいいなーくらいは期待していた。


 そうして、彼女と特に鉢合わせることもないまま少しだけ日々が流れて。


『……ぐす』


(ん、ん……?)


 その日は少し、様子がおかしかった。


 物音で目覚めた俺は、もぞもぞと布団から這い出し、悪いと思いながらも耳をすませる。


『ぐす……ひぐ……ぐすぐす』


(えっ、小春ちゃん泣いてる?)


『行きたくない、ぐすぐす。学校やだぁ〜〜』


 こんなの、ここに来て初めてだ。思い返せば最近、鼻歌も減っていたような気もする。


 すすり泣く声に、頭がどんどん熱くなる。


 今すぐ玄関を叩いて、大丈夫かと声をかけてやりたい。


(だけど、それは無理だ……)


 無力な俺は、彼女が泣き止むまで隣の部屋で寄り添うことしかできなかった。




 ◆




 ガチャリと、隣のドアが開いた。出てきた小春ちゃんは、腫れた目を大きく見開いて固まった。


「な、夏目さん?」


 どうしてそんなに彼女が驚いているかというと。


「痛い、痛い痛い痛い!」


「大丈夫ですか!? どうしたんですか?」


「腹が痛い、やばい、死ぬ!」


「え、死、えっ!?」


「ごめん、病院に……タクシー呼んでもらってもいい!?」


「は、はい! タクシーですね!? 待っててください、すぐに呼んで来ます!!」


 珍しく慌てて、彼女はカンカンと靴の音を鳴らして階段を駆け降りて行った。


 玄関先でうずくまっていた俺は、こっそりと立ち上がる。


「さ、行くか」


 普通に歩いて階段を降りた。無意識に煙草に火をつけようとして慌てて引っ込めていたら、ブロック塀の向こうから小春ちゃんが戻って来た。


「夏目さん! タクシー来ました!」


「ありがとう、いてててて〜!」


「あの、一人で大丈夫ですか?」


「うーん、でも小春さんはこれから学校だろう?」


「そうですが……」


「俺は一人でも……いたたっ。小春さんは、こんな知らないおっさんなんか心配するより、学校に行く方が大切だからね」


 激しめに咳き込んで、チラッと小春ちゃんの方を伺う。


「いえ、行きます! 知らなくないですよ、夏目さんは色々と助けてくれたお隣さんです。学校より、夏目さんの身体のほうが大事ですから!」


「そう? じゃあよろしく。いたた……」


 ムキになった小春ちゃんは疑いもせず、俺に続いてタクシーの後部座席に乗り込んだ。


 パタン。とドアが閉まり、タクシーは発車する。

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