第3話

 ◆




「夏目くんって、ハイライト吸ってんだ」


「そーすね」


「若いのに電子じゃないって珍しいね。早死にするよ?」


「超高齢化社会? むしろみんなしぶとく生きすぎなんすよ」


「あは、厳しいな。でも夏目くんには長生きして欲しいけどね。じゃあお先ー」


 バイトの昼休憩。年上のシングルマザーは俺の背中をバチンと叩いて、喫煙室を出て行った。小さい子を抱えるあの人は、3年前から電子に変えた。


 ああ、クソみたいな人生だ。


 友人だったやつらは結婚して妻子がいるとか、仕事で昇進したとか、起業したとか。めでたい話は聞きたくなくても勝手に耳に入ってくる。


 俺だけ、10代の頃と何も変わってない。


 周りはどんどん次のステージに行ってるのに、俺は同じステージをぐるぐると迷っている。


「金もない、資格も経験もない、彼女もいない……」


 俺のことを若いというが、31だぞ。もう今から新しいことを始めようとかそんな気にはなれない。


 20代は、未来に無限の可能性があると信じていた。自分は無敵だとも。


 夢行きの明かりは十分だったはずなのに、気づけば道を照らしていた光がチカチカと切れかけている。


 30代の俺は、どこに行けばいいんだ。


 もうどこにも道はないんじゃないか。


 無闇に歩いて、ギリギリを保っている光が消えてしまうのが怖い。


 皮肉だよな。


「特別な何者か」になりたかったはずなのに、いつの間にか「替えのきく便利な人間」になってたじゃねえかよ。畜生が。




 ◆




「夏目さん」


 バイトから帰宅して玄関の鍵を回したとき、隣の部屋のドアが開いた。


 部屋から半分顔を出した小春さんが、おずおずとこちらを伺う。


「先日はありがとうございました。エアコンですが、来週業者が入ってくれるそうです」


「そっか、良かったね」


「はい。……それだけです。失礼します」


 本当に用事はそれだけだったらしく、彼女は眉ひとつ上げずにドアを閉めた。


 別に隣のおっさんに報告する義務などなかろう。やっぱり律儀な子なのだと思う。


「……さむっ。カイロ、職場でもらってくるか」


 体を丸めて、今度こそ家へと入った。


 暗闇の中、明かりをつける。冷たくて澱んだ空気が、肋骨あたりにずしりとしがみついてくる。


 鍵を靴箱の上にノールックで投げ、煙草をくわえて靴を脱ぎ散らかした。そんなときだ。


『ふんふんふん〜〜〜♪』


「…………うん?」


 聴き間違いだろうか。かわいい鼻歌が聞こえる気がする。


『ふんふんふん〜〜〜♪ ふふんふん〜〜〜♪』


 ……えっ、ちょっ嘘だろ?


『ふふんがふんで、ふん〜〜♪』


「ぷっ! ……んぐ」


 思わず吹き出して、慌てて手で口を塞ぐ。


 ……まじか。


 隣のあのクールな子、ご機嫌で鼻歌歌ってんな?


(ギャップえっぐ。かわいいな)


 口を押さえたまま部屋に入ると、鼻歌がよりはっきりと聞こえるようになった。


(そりゃこんな木造のボロアパートだ。壁は薄いし、隣の声は丸聞こえだよなぁ)


 反対隣に住む芸人が、テレビを見ながら笑っている声もよく聞こえてくる。お互い様だからと思って放置はしていたが。


(しかし、こっちは女の子だし)


 本人が気づいていないなら、教えた方がいいのかもしれない。


 でも……。


『ふんふん〜〜♪ ふんふんふん〜〜〜♪』


(ンンッ! て、天使じゃん)


 あまり好きではないこの部屋で、こんなに癒されたのは初めてかもしれない。


(……ふふっ、もう少しだけ聞かせてもらうか)


 煙草に火をつけ、そのかわいらしい声に耳を済ませて俺は目を閉じた。

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