第2話

 それは、真冬に現れた気の早い春だった。


小春こはるひよりです」


 その子は「小春日和」なんて名前なのに、ドライアイスのように冷たい目をしていた。


「はあ、どうも」


 俺んちの玄関のドア越しに、しばし沈黙。


 ん? 女の子がおっさんに個人情報を漏らすなんて大丈夫か?


 小春さんという子は、隣に越してきたその日のうちにあいさつに来た。今どきこんな木造2階建てボロアパートであいさつなんて、律儀な子だと思った。


「大学生で、関東大学に通ってます。学年は3……」


「いやいやいやいや! 律儀がすぎる!! 言わなくていい言わなくていい!!」


「ですが。お隣がどこの馬の骨かわからないと不安かと思いまして」


 じっと俺を見上げる彼女の肩は、震えている。


 それは多分、0度近い外気のせいだけじゃない。


 ……まあね。隣がどんなやつか知らないのは不安だよな。


 ばりばりと頭をかいて、俺は彼女を見据えた。


「……夏目。そこの小さいほうのスーパーで働いてる」


「夏目さん、ですか。よろしくお願いしま……くしゅっ」


「大丈夫か? 冷えるし、もうここはいいから――」


「いえ。その、部屋のエアコンが壊れていて……戻っても寒いので」


「まじで? 管理人には言った?」


「管理人室は部屋の真下のようなんですが、留守でした」


「ああ、あそこはいつも人がいないよ」


 1階は奥に管理人室、ほかはマジシャンと外国人が住んでいる。よくカレー臭が原因で喧嘩しているのを見かけるが、今この話はどうでもいいか。


「電話ならつながると思うよ、早めに修理依頼出しときな」


「そうします。ありがとうございます……っくしゅん!」


「ちょっと待ってて」


 少し考えて、ドアを開けたまま中へ戻った。


 この寒さで暖房がないのは気の毒だ。うちにあげてやりたいが、初対面の男女でそれは、警察沙汰にもなりかねない。


 いや、俺にはそんな気ないけど……というのはあんな美人さんに対して嘘になるか。でも、隣人に手を出すつもりは毛頭ない。


 それでも、もしなにもしなくても。密室で相手が不快に思ったら、おっさんが不利になるのは言うまでもない。


 友だちじゃない、仕事仲間でもない。


 知らない男女には適度な距離感が必要だろう。


 でもな、同じアパートに住む人間だ。少し手を貸すくらいなら、許されるんじゃないかと思ったから。


「よかったらこれ使って」


「これは?」


「俺のあったかグッズ」


「あったか、グッズ……?」


「越したばかりでモノ少ないだろう? 毛布は今日クリーニングから戻ってきたばかりだから臭くないと思うし、カイロも全部使っていいよ。やかんはある? ゆたんぽは毛布の下に入れれば、こたつみたいになるから」


「……」


 IKEAの大きな袋に詰め込んだグッズをぽかんと見つめて、小春さんは黙ってしまった。


 あれ。おせっかいだったかな?


「ごめん、必要ないなら……」


「いえ! とても助かりました。この借りは必ずお返しします」


 寒さに鼻を真っ赤にして、それでもクールに小春さんは頭を下げた。そしてスタスタと部屋に戻って行く。


「助かったのならいいけど……」


 俺も部屋のドアを閉めた。


 さて、見栄を張ってあったかグッズ全部貸したが。


「やべ。うちも5年前からエアコン壊れてるんだった」


 ここ数年頼っていなかったから忘れていたけど、あれだけ豊富なあったかグッズは、エアコン代節約のためだった。


「あとで辛いラーメン食べるか……さむっ」


 みじめな俺は収納から汚いモッズコートを引っ張り出し、さらに薄っぺらい布団にくるまるのだった。

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