第39話 逃げたい問題
「で、逃げてきた先がここなんだ」
呆れたように言う声の主に、フレイは不機嫌に眉をしかめた。
「いいじゃない。だって、本当に実家なんて、周りに迷惑かけるかもしれないし。不本意だけど」
「あー。まあなー」
ケビンはずずっと目の前のお茶をすする。この国において、日常的に使用する茶葉としては最高級のものだ。
「……公爵様たちはなんて?」
「喜んでいらしたわ。実家のように思ってくれるのね嬉しいわ、って。荷物の整理が落ち着いたらゆっくりお話ししましょう、と言ってくださっていて」
「よかったじゃん」
「ええ、いきなり訪ねてきた私を快く受け入れてくださるなんて。本当に娘のように思ってくださってるのかしら」
「だろ。気に入らない人間に名前はやらんと思うぞ」
「本当にありがたいわ。いつか返す名前とはいえ。ケビンも急に呼んでしまってごめんなさい、来てくれてありがとう」
銀髪執事に家出宣言をしたのち、軽く荷物をまとめたフレイが向かった先は、隣国トランブールのクラニコフ公爵家だった。
本来の居場所──街の工房に戻っては周りのみんなに迷惑をかけるかもしれないと思ったし、公爵家ならば他国の王子から匿ってくれるかもしれないと考えたからだった。
「……なんで逃げてきたんだ?」
「それが聞いてよ。アレン様が本当に腹立たしくて! 全部バレてたのよ、私が偽物の公爵令嬢だってことも、ジール様たちの企みであることも、私が平民だということも!」
「ええ? 俺の努力は!」
ケビンは驚いた。少々自分勝手な物言いではあるが、それに背中を押される形でフレイは大きく頷いた。
「全部意味なかったの! それで、婚約破棄の企みを成功させるために、私に優しくしていたみたい。私の演技に付き合ってくれていたのよ」
事のあらましをぐちぐちと語った。
「ふーん?」
「そんなに驚かないのね?」
「いやいや、十分驚いてるさ。ただ、アレン様っていい人なんだなって思って」
今度はフレイが驚く番だった。
「どうしてよ! すごく性格が悪いじゃない。私、脅されてるんだから」
「むしろどうしてそう思うのか俺にはわからんけど。それに俺たちも騙してたんだし、お互い様じゃんか」
「でも」
「いやいや、もう少し考えてみたら。君はジール様から依頼を受けて、アレン様に婚約を破棄してもらいたかった。で、慣れないながらもアレン様を誘惑したんだろ。つまり、つたないその演技に乗ってくれたってことだろう? 無事に婚約破棄をしてもらえて、君は依頼達成、報酬ももらえて、ジール様もリーゼ様も幸せの真っ最中。何の不満がある?」
真面目な顔で諭されても、フレイの機嫌は急降下だ。
「そのおかげで、アレン様には婚約者がいなくなって、私が今その婚約者になってるんだけどね?」
「ああうん、それもわかってんだけど。でもそれも一年間の話じゃないか。ジール様との契約は三年だったろ。それに比べれば大したことないと思わないか? たったの三分の一! ジール様と比べてみなよ。ただ指示するだけのジール様とは違ってー、友人のために婚約破棄までしてくれる。そのために演技まで付き合ってくれる。まさに雲泥の差! よっぽどアレン様の方が心優しいと思うけどねえ」
「わあ辛辣」
随分とジールの評価が低いことを知り、ケビンもだいぶ苦労したんだなあと思ったのだけれど。
どんなにアレンを持ち上げる内容であっても、やはりアレンに対するフレイの印象は悪いままだ。
「でも私、今、婚約者の立場になってしまって、あの国で一番注目されていて……まるで逃げられないようにされている気がして」
「でも、一年だ。それさえ過ぎれば君は解放される。アレン様はフレイが望まないかぎり、一度した契約を違えないだろ。だったら一年の間、婚約者という立場を十分楽しんで、楽しみ尽くして、契約期間が終わったらお金とともに去る。俺が知ってるフレイなら、そうすると思うけどな」
はっとした。
たしかにジールからの無理難題を受けたときは、そう考えた。
貴族令嬢になりすますための勉強も楽しくこなしたというのに。
首を傾げたフレイを見て、ケビンは一度溜息を吐いた。
「アレン様がどうしていい人だと思ったのかフレイは俺に聞いたけどさ。──俺からも聞きたいね。なんでそんなに嫌がってんだ?」
「なんで、嫌がってる……か?」
ケビンの言葉をそのまま返して、喉を詰まらせた。
どうして私は今こんなに受け入れられないのだろう、と考えないようにしていた問いに、真正面から強く殴られた気がした。
「それ、は」
掠れた声でなんとかそれだけ搾り出したとき、「失礼いたします」と声が掛かった。
振り返るとクラニコフ家のメイドだ。聞けば、公爵夫人が呼んでいると言う。
「ごめんなさい。少し行ってくるわ」
ケビンに一言謝って席を立つ。
公爵夫人が待つ部屋へ向かいながら、フレイは胸を撫で下ろしていた。考えたくない問題を先送りできたことにほっとしたのだ。
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