第35話 更新された雇い主

 

「ちょ、ちょっと待ってください、なななんですかこれは」


 金の輝きに戸惑いつつ、覗き込む。まぎれもなく金貨だ。


「何って、契約金だが」

「いえ、まだ、私は受けるとも何もお返事しておりませんよね。しかも今、そう、たった今、お金には慎重にならなければいけないと心に刻んだばかりでして」


 金貨が自分の目に映らないよう、隠すように手のひらを広げた。

 アレンは心底理解できないとばかりに首を傾げる。


「君に、断る権利があるとでも?」


(ありませんでした)


 がっくりと肩を落とした。しかし、これでは二の舞である。


(ジール王子で学んだはずでしょう、しかもたった今、後悔をしたばかり。これは何としても逃げなければいけないのよ。受けてはだめよ、受けては)


 ぐ、と奥歯を食いしばって、顔を上げる。

 しかし、それを待ち構えていたかのようなタイミングでアレンは二の矢を継いだ。


「君にとっても悪い話ではないだろう。それで今回の話には目を瞑ろうと言っている。それに、契約期間は一年。ジールとの契約期間も当初の予定では残り一年ほどだったろう。ジールと同じようにその間の生活を保障しよう。ジールからも当初の予定通りもらうものはもらえばよい。単純に、二倍だぞ」


 何が、とはアレンは言わなかった。

 けれどもうお金のにおいしかしない。


「ぐう……やります……やらせて、いただきます……」


 フレイは腹の奥から絞り出した。抗おうとしたからか声は掠れていた。しかしフレイは欲に負けたのだ。

 満足そうに頷くアレンはジールを彷彿とさせた。デジャブである。


「ちなみに、契約内容は」


 なるようになれと返事はしたものの、何をするのかはさっぱりだ。

 まさかジールのように無理難題を突き付けられるのでは。


 怖々した様子が伝わったのか、アレンは答えてくれた。


「このまま、一年ともに過ごしてほしい。私が惚れた公爵令嬢フレイとして、傍に」

「……リーゼ様の代わりに、ということでしょうか」

「そうだ」


 婚約者不在となることが悪影響を及ぼすのかもしれないとフレイは思った。


(そうよね。婚約破棄した次の日に、婚約者にするつもりだった私もいなくなれば、不都合があるのかも。でも)


 すぐに去ろうとしたのにも理由があって。


「私は、いないほうがよろしいのではありませんか? 恐れ多いことですし、私が言うことではないというのも重々承知の上なのですが、今、アレン様の支持は落ちていると思うのです」

「ああ、婚約破棄を宣言したからな。君のおかげで」


「う。ええと、そう、それのせいでですね、落ちた信用を取り戻すのも一苦労だと思うんですよ。ですから、私もすぐに消えてしまえば、アレン様も騙された側、になるのではないかと考えまして」

「……それで逃げ出そうとした、と」


 早い理解に感謝した。もちろん遅かれ早かれ逃げ出すつもりだったが、この場で言うことでもないだろう。話が逸れることは目に見えている。


 ふむ、とアレンはしばらく考え込んだ。それから口を開く。


「私はずっと婚約者にリーゼがいただろう。しかしリーゼはジールに取られてしまった。もしここで君までいなくなってしまえば、おそらく見合い話や求婚で溢れることになると思う」


 ところどころに棘を感じるのは、いったん置いといて。

 眉目秀麗な王子であるアレンは、婚約破棄という不名誉なことをなかったことにできるほどには、優良物件だ。

 もしフレイがいなくなってしまえば、悪い女に騙された可哀想な王子となるのだから、婚約破棄宣言の悪印象もだいぶ和らぐはずである。

 となれば、次の婚約者には誰がなるのか、という話になるのは必然だ。王子には王家の血を絶やさぬよう、婚姻を結ぶ義務がある。


「正直なところ、恋愛事には興味がない。地位に群がる者どもを相手にするのも、視界に入れることすら、可能な限り避けたいのだ」


 淡々と紡ぐアレンの心は読めない。


(辛辣……私と二人で話していたときはよく笑ってらしたのに。相当無理をされていたようね)


 胸が痛んだ気がした。が、すぐにかぶりを振る。


「しばらく私が虫除けになる、ということですね。しかし、いつまでもお一人というわけにはいかないでしょう? どなたか婚約者を見つけなければ」

「先にも言っただろう。婚約者は君がなるんだ」


 指差されて顔をしかめた。その話はもう済んだ。


「それは一年の間のお話でしょう? その後の話をしております」

「……信頼の置ける者に探させる。その猶予が欲しい」


 フレイのこれまでの行動は仕組まれたものだと知っていたはずだ。


「……次の婚約者を探してからでも、破棄するのは遅くなかったのでは」


 できれば巻き込まれたくないと少しばかり抗議してはみたものの、あっさりと返された。


「何度も言うが、君がここまで急に逃げ出そうとするとは思わなかったからな」


 この状況では何を言ってもフレイのせいになる。余計な波は立てないでおこうと押し黙った。

 不服な顔で静かになったフレイに言い聞かせるように、アレンは話し始めた。


「別に私はこのままリーゼと結婚しても構わなかった。リーゼが誰を好いていようと関係ない。彼女は優秀だったし、長年ともにいたのだから情もある。ただリーゼは、ジールもだが、互いに手を取り合える立場に早くなりたかったろう。……私も友人の幸せを願うことくらいはするさ。あの二人には幸せになってもらいたい」


 まるで自ら進んで婚約破棄をしたかのような言い草である。


「ですが、リーゼ様は、アレン様が政略婚に抗うつもりはないのだと」


 だから強行な手段を取ったはず。

 リーゼから聞いていた話とは食い違いがあるように感じたのだ。フレイは閉ざしていた口を開く。アレンは否定しなかった。


「ああ。政略な婚姻は必要だと考えている。国の繁栄には政略婚は欠かすことはできない。リーゼはその相手に相応しかった。だから婚約解消の打診にも否としか答えられなかったのだが」


 アレンは再びフレイを指差した。

 ひどく愉しげに見えるのは、気のせいだと思いたい。


「だが、君が現れた。政略婚も可能な、隣国トランブールの公爵令嬢の君がな。それがあの二人の狙いだったのかまでは知らないが、私は願いを叶えてやっただけだ。……まあ、そういう血なのだろうなとは思っているが」


 フレイの知るアレンとは程遠い悪魔顔に、また厄介なものに巻き込まれたのだと心の底から理解し、打ちひしがれた。

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