第32話 婚約破棄当日1

 

 優雅な演奏の最中、リーゼは現れた。

 夜会はすでに始まっているが、迎えにこない婚約者を待っていたら遅くなってしまったというだ。

 事情を知るフレイが見ても、リーゼの顔は曇って見えた。演技派である。


「……きたか」


 アレンはそう呟くと、片手を上げて演奏を止めた。フレイを背中に回す。

 何事かと奏者たちは戸惑い、出席者たちもざわめいた。


「迎えには行かぬとすでに通達していたはずだが、これ見よがしに遅れてこようとは。見苦しいぞ、リーゼ」

「そうは申されましても、突然このように……なぜわたくしとではなく、フレイ嬢と。急に届けられた紙切れ一枚で納得できようはずもございません」


 リーゼの唇は僅かに震えていた。


(わあ、リーゼ様。声まで震えて……凄すぎ。練習してるって言ってらしたけれど、ここまでとは。気合いの入りようが違うわね。こんなの絶対守ってあげたくなっちゃうけど)


 しがみついた背中からちらりとアレンの様子を伺った。

 しかし、彼に情け心は無いらしい。


「そうか。のこのこと現れなければ、醜態を晒さずに済んだものを。書面で理解できないというなら、ここで宣言しよう! リーゼ嬢、あなたとの婚約はなかったことにしてもらおう!」


 問答無用で婚約破棄だ。


(ええ⁉︎ 厳しい……アレン様のこんなに容赦のない姿は初めて見るわ)


 予想通りの展開だとはいえ、はらはらする。舞台袖から見守る気分だ。


「なぜ、ですの。理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」


 リーゼが眉を顰めると、アレンは心底不思議そうに首を傾げた。


「理由? 身に覚えがないとでも?」

「──ありませんわ」


 目を伏せたリーゼを嘲笑うかのように、アレンはぐっと顎を上げた。


(ああ、リーゼ様は婚約破棄されたがってるからいいけれど、もしも愛している人にこんなことされたら泣き崩れてもおかしくない……トラウマよ)


 予想を上回るアレンの冷たい対応をそう評しながら、周囲にも目を配る。

 口を出す者はいない。けれど、何を言い出したのかと不信感を露わにしている者も少なくない。

 最近のアレンは、政務を疎かにし、遊び歩き、婚約者以外の女性の元へ足しげく通う。王子としてはみっともない姿だったろう。あげく婚約破棄宣言である。はっきり言って正気を疑うレベル。


(二人で話していたときは、そんなこと思わなかったけれど……傍から見ると、そう思うのが普通よね。私も客観的に見れば、アレン様に対して不安に思うもの)


 さらに、自分が原因だと思えば気分も滅入る。

 深く考えないようにしながら再びリーゼの方へ意識を戻す。


 アレンからの厳しい言葉は続いていた。


「知っているぞ。あなたが私を愛してなどいないことを」

「……恐縮ながら、わたくしたちはお互いの家のための婚約。わたくしは王妃となるために教育を受けておりました。貴方様の隣に並び、恥ずかしくないように。貴方様のお力になるために。……たしかに恋愛ではないかもしれません。けれども恋愛だけが愛ではないと思いますわ」

「そうだな。あなたには長い間苦労をさせたことだろう。ただ私はもう伴侶を決めてしまった。ここにいるフレイ嬢だ」


 その場にいる全員の視線が、フレイへと移る。


(っ、すごい視線。アレン様もリーゼ様もこんな大勢に見つめられてよく平気で話してらしたわね!!! でも! 平然と、凛として! 私もリーゼ様のようにこなさなければ!)


 鍛えられた令嬢の顔を張り付けて、余裕たっぷりに見えるように微笑んだ。

 アレンが気遣うようにこちらを向き、小さく頷く。


「彼女もまたこの短期間で大きく成長している。王妃のための勉強も滞りなく進み、彼女が王妃となったとしても何も揺らぐことはない。だから、あなたとの婚約は今をもって破棄させていただく!」


 低音の声が響き渡った。

 その場にいた全員が驚き、ざわめきも大きくなる。だが一番驚いたのはおそらくフレイである。


(ええええ!? いつ、王妃のための勉強なんてしました? あ! リーゼ様と一緒に受けていたあれ? あれですか? それはさすがに無理があるんじゃないかしら!?)


 さすがに動揺した。

 ぎょっとして目を見開いたとき、割り込んできた男の声。


「アレン!」

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