第11話 考えてみれば最高の環境だった
この日の授業を終えたフレイは、自室へと戻った。
宮殿に来てから早三ヶ月。行儀作法に読み書き、国の歴史や力を持つ貴族の実情、刺繍や楽器まで。毎日覚えることは多く、頭は悲鳴を上げていた。
授業後も一人でいることは少なく、メイドの手によって髪や肌は念入りに手入れされた。その甲斐あって艶は随分良くなり喜んではいたが、人に手入れされることにはいまだ慣れていない。
「はあ。やっと一人になれた」
大きな椅子に身体を預け、フレイはぐぐっと手を伸ばした。授業中ならすぐさまお叱りを受ける格好だ。
そのタイミングを見計らったかのように、扉を叩く音がした。
「──フレイ? いるか?」
声を聞くのは久しぶりだ。驚いたものの落ち着き払って迎え入れた。
「いるわ。どうぞ、ケビン」
声を掛ければ、遠慮もせずにずかずかと入ってくる。貴族としてはあり得ない行動にフレイはおかしくなった。
それを許容する自分もまた貴族とは程遠いのだろうけれど。
(本当にこんな感じで大丈夫だったのかしら)
心配を抱かずにはいられない。庶民には肩身の狭い場所であっただろう。こちらとは違い、庶民であることを黙認してはくれないはずだ。
「はあ、とりあえず戻ったぞ」
「……おかえりなさい。どうだった? リーゼ様の様子は」
フレイが貴族令嬢のための勉強をしている間、ケビンもまた働いていた。いや正確には働かされていた。他でもない悪魔……ジールの命令で。
少々不憫には思うけれど、自分だって働かされている。一緒にきたケビンもまた働かされてもいいだろう。
(だってケビンは、完全に他人事気分だったもの!)
リーゼ側の状況も知りたい、とジールに調査を志願した日。
その仕事はケビンに任せてあると教えてくれたのだ。
「どうもこうもない。きっちり働かされたぞ、使用人としてな。花壇の手入れも手伝わされたし重い物も運ばされたし倉庫の整理もやらされた」
両手を広げて、リーゼ嬢の屋敷でのあれやこれやを教えてくれる。
下働きの見習いのようなことをしていたらしい。こちらでは客人の扱いだったから、待遇の差は大きい。
「でも苦ではなかったんでしょ」
「ああ。むしろこっちより馴染むんだよなあ、やっぱ。こんなところで客人扱いなんか俺に向いてないんだって」
「それは私も実感してるところよ」
世話をされるより、他人の世話をしているほうがよっぽど気が楽だ。
できることなら自分だってケビンのように動き回りたいほどだ。それが無理なことだと理解しているから、その望みはますます募るばかりである。
「で、肝心なところは、どうだったの」
頷きながらしばらく聞いていたが、フレイは尋ねた。
ケビンの労働の話はどうでもよくて。そもそもの目的はリーゼ嬢の気持ちを確認することだ。
「うわ、久しぶりなんだし、もうちょっと俺の話聞いてくれてもいいんじゃない?」
「それはまた今度。だってその話次第で、私は貴族の練習なんてしなくてもよくなるわけ。すぐにここから逃げ出す段取りを組まないといけないでしょう。ケビンの話を聞いてあげたいのはやまやまだけど、私だって今後の生活がかかってるもの」
もしジールの話が本当で、リーゼも同じ気持ちであるなら、力を貸そうと思っている。これまでの依頼人たち同様、全力でだ。
しかしケビンは眉間のしわを深くした。人の本質を見抜く探るような目をフレイが受けるのは本当に久しぶりのことだった。
「……でも俺は聞いたぞ。最近、楽しそうなんだって? 貴族のお勉強とやら。執事のオニイサンが言ってたぞ。授業を受ける姿勢にも変化があって、覚えるスピードもどんどん速くなっている、らしいじゃんか。──ここでの生活も、案外嫌じゃないんだろ、フレイ?」
確信めいた言い方に、フレイはお淑やかに笑って見せた。
この笑い方をケビンに見せたのは初めてである。
「あら。さすが、ケビン様。わたくしのことをよくご存じで。少々心境の変化がございましたもので有意義な生活をさせていただいておりますわ」
「うわ気持ち悪い」
正直すぎる感想にフレイもまた眉をしかめた。
「もうちょっと褒めてくれたっていいじゃない。こういうことをずっとやらされてるんだからね、毎日」
「……それは大変だな。俺にはムリ。で、心境の変化って? ここで生きていく覚悟ができたとか?」
ケビンだって猫かぶりは得意だろうに、あっさりとできないことにした辺り、絶対にやりたくないのだろう。したたかさが垣間見えた気がした。
「違う違う。聞いてよケビン。私、気づいちゃったのよ。今のこの状況ってつまり、お金を払わずに勉強してるってことでしょう!」
「は?」
「だから、知識なんてお金を払ってでも欲しいものじゃない。それなのにここではお金を払わずに、タダで、勉強させてもらえるのよ! むしろお金貰ってるし」
「お、おう……?」
「しかも衣食住付き? 自分でご飯作らなくても出てくるのよ! 掃除もしてくれて! 勉強だけしてればいいなんて、なんて最高な環境」
フレイのこれまでの知識集めと言えば、本を読むことが大半で。
あとは物珍しそうな事柄に出くわすたびに詳しく聞いて、メモに残す。
拾い集めた断片的な知識を役立つものにするために、自ら繋げていかなければならなかったが、授業では違った。順を追って教えてくれる先生がいる。わからないところは教えてくれるのだ。
拾い集める知識には限度があって、どうしても繋がらず諦めてきたことも、この場所では諦めずに済むかもしれない。
「しかも庶民には到底学ぶことのない内容なわけよ。こんなところに閉じ込められてるんだもの、せっかくの機会みすみす逃してなるものですか!」
ぐ、と握りこぶしを見せつければ、ケビンは笑みを浮かべながら長い長い溜息を吐く。
しばらく顔を見なかったにもかかわらず以前と変わらないフレイに呆れたような、安堵したような顔だった。
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