今度こそ『お母さん』になってあげて
かくして邪心母は人の心を失っていき、ただ怪異を喰らっては己の赤子を産み出す侵徒と化した。
そうして欲望のままに突き進み……ダイキとルカによって裁きが降された。
灰となって消えゆく中、邪心母は思った。
(結局、どれだけ合成怪異を産み出しても、この孤独は癒されなかったな……)
ずっと消えない寂しさを埋めるため、あらゆる手を尽くした。
その結果が、こんな末路だった。
(バカだな私。自分がやっていたことなんて、結局お人形遊びじゃない。そんなことしたって、満たされるわけがないのに)
心のどこかでは、それがわかっていたのに、止まれなかった。
そんな愚かな行為のために、多くの命を奪い、踏みにじってきた。
もっと早く気づくことができれば、あの子を……大谷清香を怪異にするために殺すなんて真似、しなかったかもしれない。
(でも、もう手遅れよね。私は、然るべき場所に行くんだわ……)
己の運命を受け入れ、邪心母──牧乃は瞳を閉じた。
──心配いらないよ? 君が行くのは天国でも地獄でもないのだから。
声がした。
聞き馴染んだ優しい声ではない。
もっと粘ついた、ひどく気味の悪い声だった。
牧乃は感じた。
己の魂が、どこか遠い次元に引きずり込まれていくのを。
──約束したよね? 君の心臓は私に捧げてくれたじゃないか? 君はもう私のものなんだよ。だから、おいで? 私のもとにおいで?
黒い蛇が絡みついていた。
蛇はどこまでも深い、底の見えない暗黒へと牧乃を導く。
牧乃は思った。
あの先は『無』だ。
何も、存在しない。
取り込まれたら最後。
何も感じることもできず、ただの『無』になるのだと。
(そっか……私、地獄にすら行けないんだ)
これが、闇に魂を捧げた者の末路。
どうあっても逃れることはできないのだと、牧乃は悟った。
(……ごめんね、ルカちゃん、ダイキくん。せっかく祈ってくれたのに、私、罪を償うことすら許されないみたい……でも、これが相応の末路なんでしょうね)
牧乃は涙を流した。
今更になって、恐怖が湧いた。
(怖い。怖い。怖いよ! 『無』になるってなんなの!? いやだ! 私、消えたくない!)
怯える牧乃に蛇がねっとりと巻き付く。
──怖がらなくていいんだよ? こっちに来れば、そんな感情も消える。何も感じなくなる。それが一番の幸せなんだ。喜びも、悲しみも、怒りも、楽しさも、いらない。君がそっちで味わった絶望を、もう味わうことはなくなるんだ? 理想の世界だろう?
暗闇にどんどん引きずり込まれ、牧乃はやがて感情が薄れていくのを感じた。
声の主張を、無条件で受け入れ始める自分がいた。
(……そうか。幸せも、苦しみも、最初から感じられなくなるなら、そのほうがいいのかな?)
そうすればあるはずもない希望に縋ることも、悪意によって幸せを奪われることもない。
虚無になること。
それこそが、一番の救済なのかもしれない。
(──でも)
深淵の入り口に差し掛かったところで、牧乃は最後に思った。
(だったら私……何のために生まれたんだろう?)
深淵が牧乃を迎え入れる。
──さあ、おいで! 早く早く早く! ひとつになろう! それこそが究極の幸せ! 真の救済! 心配いらない! 私が……愛してあげるよ!
ねっとり、舌舐めずりするように、粘ついた闇が牧乃を呑み込もうとする。
その寸前で。
赤い炎が、黒い蛇を焼き尽くした。
──……は?
牧乃の魂は、急速に深淵から上へ浮上していく。
「……ここは?」
牧乃は周囲を見回す。
暗闇の場所に立っているのは、先ほどと変わらない。
だが、あの深淵に比べれば、まだ光がある。
……そう、牧乃の背後に、一筋の光があった。
光の先から、ひとりの女性が歩いてくる。
何かを胸に抱えた女性が。
その女性に、牧乃は見覚えがあった。
「あなた、は……」
忘れるはずがない。
牧乃の手によって、怪異となりかけた存在。
大谷清香であった。
「ダイキくんたちは仇を取ってくれたのね。良かった。これ以上、あなたのせいで被害者が増えることは、もうないのね」
安堵の息を吐くと同時に、清香は牧乃を睨み付ける。
「私は、あなたを絶対に許さない。どんな理由があろうと、あなたは裁かれなくちゃいけない」
牧乃はたじろぐ。
いまになって罪の意識が彼女を苛む。
己が積み重ねてきたものが、いかに大きいか。
だから……自分はあの深淵に行くはずだった。
なのに、なぜこんな場所にいるのか。
「詳しいことはわからないけど……どうやら、あなたの魂は償うチャンスを与えられたみたいよ? だから、ちゃんと地獄に行きなさい。この子のためにも」
「──え?」
清香は胸に抱いていたものを、牧乃に差し出す。
牧乃の手が震える。
ずっと求めていた存在が、そこにいた。
「あ、あああっ!」
「……私は、この子の願いを聞いて、連れてきただけ。私には、わかるから。この子の気持ちが──『お母さんに会いたい』って。私には、その気持ちを無視できなかった」
清香から、牧乃は受け取る。
無垢な笑顔を浮かべる赤子を。
赤子はやっと牧乃に会えたことを喜んで「きゃっきゃっ」と笑った。
「バカだよあなたは。その子はずっと、待っていたんだよ? あなたに抱きしめられるのを。なのに、こんなにも待たせて……この先も、もっともっと長く、離ればなれになるのに!」
清香は怒りと悲しみを込めて、涙を溜めて、牧乃を叱った。
「だから、ちゃんと罪を償って! どれだけ気の遠くなるほどの時間がかかっても! その子のためにも……今度こそ『お母さん』になってあげて!」
「……うわあああああああ!!!」
赤子を抱きしめて、牧乃は泣いた。
「ごめんね! 産んであげられなくてごめんね! 守ってあげられなくて、ごめんね! ダメなお母さんで、ごめんね! 傍にいてあげられなくて、ごめんね! 私、私……絶対に罪を償って、もう一度あなたのお母さんになるから! だから!」
「あぅ!」
「あ……」
「だぁ!」
赤ん坊は牧乃の涙を脱ぐように、ぺちぺちと頬に触れた。
「……ありがとう。優しい子ね」
「きゃう♪」
腕の中でゆっくり揺すってあげると、赤ん坊は嬉しそうにした。
牧乃はようやく、本当の幸せを噛みしめた。
腕の中の赤子は、やがて光と共に消えていった。
どうやら、時間が来たらしい。
地獄の業火が、牧乃の目の前で燃え上がっていた。
さあ、行こう。
罪を償うために。
たとえ、ひとりきりでも耐え抜いてみせよう。
「……ひとりじゃない」
「え?」
「俺も一緒に、償う」
「あ、ああ……」
影として、ずっと隣にいてくれた存在が、牧乃の前にいた。
牧乃はその胸に飛びついた。
「俺もあの深淵に呑み込まれかけたが……どうやら償うチャンスを貰えたらしい」
男の腕に、牧乃は強く抱きしめられた。
「俺たちの行く先は、きっと想像もできない地獄だ。だが……君と一緒なら、乗り越えられる気がする」
「うん……うん!」
「だから……これからも君の傍に、いてもいいか?」
「うん! 一緒にいて! もう離れないで!」
男と女は、地獄の業火に焼かれながら、深く抱きしめ合った。
悠久の時を経て、苦難を共にすることを誓い合う夫婦のように。
* * *
邪心母が灰となって天に昇っていく様子を、ダイキとルカは見届けた。
最期に見た顔は、穏やかに眠る赤子のようだった。
「……これでもう、あの人と戦わずに済むんだな」
「うん。傷つけて、傷つけられることもない」
戦いの終焉に、ダイキとルカは深い安堵を覚えた。
「……祈ろう。今度は、あの人が侵徒なんかにならないことを」
「うん。今度は、きっと……」
ダイキとルカは寄り添いながら、月夜を見上げた。
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