邪心母の誕生

 日々、牧乃のお腹は大きくなっていった。

 それにつれて、義母の老婆の精神も乱れていった。

 近所から向けられる好奇の視線に疲弊していたこともあるだろう。

 すっかり寝込んでしまい、とうとう帰らぬ人となった。


 自分のせいで、義母が死んでしまった。

 義父は、きっと自分を恨んでいるだろう。

 葬式を済ませた後、牧乃はどうやって義父と顔を合わせればいいかわからなかった。


 ……しかし、悲しみに暮れているはずの義父の口元には笑みが浮かんでいた。


「ふぅ、ババアめ。やっとくたばったか」


 思わぬ言葉に、牧乃は耳を疑った。


「よく言っておったな。『子が作れないのだからこんな行為には意味がない』と……まったく、どこまでも合理的で男のさがを理解しない愚かな女じゃったわい」

「おじいさん? いったい何を……きゃっ!?」


 とつぜん義父は牧乃の胸を握りしめてきた。

 牧乃は義父の手を振り払って、身を庇った。

 義父は見たこともない顔を浮かべて、牧乃の全身を舐め回すように見ていた。


「できればお前が十代の内に初物を味わいたかったんじゃがのう。それなのにどこぞやの男どもに種など貰いおって。まったく興醒めじゃ」

「な、なにを……」

「まあいい。安定期に入ったら、すぐに楽しませてもらうからのう。お前さんも家から追い出されたくなければワシに逆らわんほうがいいぞ?」


 ……同じだ。自分を辱めたあの男たちと同じ目だった。

 牧乃は理解する。

 義父は最初から体が目当てで、若い娘を引き取ったのだ。


「ひひひ。ワシもまだ若いもんには負けんぞ。長生きもせねばな~。その腹の中にいるのがもしも娘だったら、食べ頃になるまで待たなくてはいかんしのう。母娘ともどもかわいがってやるわい」


 ……逃げなければ。

 一日でも早く、この家を出て、遠くに逃げなければ。

 牧乃はすぐに荷物をまとめた。

 お小遣いとアルバイトで貯めたお金をすべて引き出して、夜の内に抜け出した。

 行く宛てはなかった。

 だがお腹の子を無事に産むためにも安住の地を見つけなければならない。

 なんとしてでも探そう。

 この子の幸せのためにも。

 夜も明け、早朝の駅のホームで、牧乃は膨らんだお腹を愛しげに撫でた。


(心配しないで? お母さんが絶対に、守ってあげるからね?)


 無事に出産したら、すぐに働き口を見つけよう。

 どんな仕事でもいい。

 この子が幸せに育ってくれるのなら。

 ささやかでもいい。

 子どもと幸せな家庭を築けるのなら、それ以上は望まない。

 牧乃は思い描く。

 血の繋がった愛しい子と笑顔で過ごす日常を。


(……あっ。いま、お腹蹴った)


 命の証が、確かにお腹の中に宿っている。

 母親になれるとは、なんて素晴らしいんだろう。

 多くのものを失ったが、自分にはこの子がいてくれる。

 世界でたったひとつの宝物。

 自分の人生は、すべてこの子のために捧げよう。

 そう誓ったとき、


 牧乃の背中を誰かが押した。


「──え?」


 牧乃が最後に見た光景は、反転する景色と、自分に突っ込んでくる電車だった。




 周りが騒がしい。

 もう、静かにしてほしいなぁと牧乃は思う。

 お腹の子が不安になるじゃないか。

 膨らんだお腹を庇うように両手を重ねようとする。


(……あれ? おかしいな?)


 撫でるべきお腹が、どこにもない。

 そもそも、手が動かせない。


(あ……あんなところに、あった)


 右手が随分と離れてる場所にあった。

 まったく、赤ん坊を育てるために必要な大事な手なのだから、勝手にどこかに行かないでほしい。

 ほら、左手も電車の窓に貼りついている。

 右足も、左足も、頭も、あちこちに飛び散って……。


(……え?)


 いつのまにか、牧乃は自分のバラバラになった体を空中から見下ろしていた。


(何で私、浮いてるの? 何で、私がもうひとりいるの? 何で、私の体にバラバラになってるの?)


 周囲はいまだに騒がしい。

 あちこちで悲鳴が上がっている。


 ──おい! 飛び降りだぞ!

 ──ひでえ! バラバラだ!

 ──……ねえ? 見間違いじゃなければ、あそこに立ってた人、妊婦じゃなかった?

 ──お腹の子と一緒に心中したってことか? なんてひどい母親だ!


 飛び降り?

 違う。

 誰かに突き落とされたのだ。

 いったい何のために?


 ……もしも赤ん坊が生まれて不都合が起こるとしたら、それは誰か?

 ……世間の目を気にして、血縁問題を疎んで、平気で他者の命を奪う真似をするとしたら、それは誰か?


 御曹司の息子の邪悪な顔が思い浮かんだ。


(あ……あぁ……)


 牧乃に怖気が走った。

 ここにいる自分が、もう死んだ身であるとようやくわかったのだ。


(……どこ? 私の赤ちゃん、どこ?)


 牧乃は探し回る。

 唯一の奇跡を信じて。


 神様。お願いです。私はどうなってもいいから、どうかあの子だけは助けてください。

 あの子は何もしてません。

 無垢な魂です。

 だからどうか、奇跡を。


 はじめて神に本気で願いながら、牧乃は線路を彷徨った。

 そして……奇跡は起きなかった。

 牧乃は見た。

 お腹にいたはずの、己が子の無残な姿を。


 牧乃は発狂し、天を呪って絶叫した。


(何を……私たちが何をしたっていうのよ!? ふざけるなふざけるなふざけるな! 返せ! 私の子どもを! 私の家族を返せ!!)


 牧乃はすべて憎んだ。

 人を。世界を。こんな運命を強いる神すらも。


(こんな……こんな最期を迎えるために私は生まれたの? なんなのよ……こんなの、こんなの、地獄となんにも変わらない!)


 黒い衝動が牧乃の胸を満たした。

 このまま死ぬなど耐えられない。

 こんな地獄に追いやった者たちすべてに復讐するまで、成仏などできない。


(呪ってやる! すべて呪ってやる! あの子が味わった痛みを何倍にも、何十倍にも返して……いいえ、地獄すら生ぬるい苦しみを味わわせてやる!)


 憤怒の炎が燃え上がると同時に、氷のように冷たい抱擁をされた。


 ──いいよ。あなたの願い、私が叶えてあげる。


 黒い闇が、牧乃に寄り添っていた。

 闇は、甘く、優しい声色で耳元に囁く。


 ──あなたの願い、私にはよくわかる。家族が欲しいよね? 私があなたの願いを叶えてあげる。この世のすべてを理想的な家族に変えようよ。でもその前に……ちゃんと仕返しをしないとね?


 牧乃は感じた。

 自分の魂が、在り方が、別のモノへと書き換わっていくのを。


 ──私があなたのために力をあげる。あなたのその力を好きに使っていいの。やりたいことを全部やろう?


 牧乃は笑みをこぼした。

 ああ、素晴らしい。

 確かにできる。

 これほどの力があれば、どんなことも。


 ──さあ、あなたのユメを叶えましょう?


 その日、奇妙な記事が書かれた。

 線路に身投げしたはずの女性のバラバラの遺体が跡形もなく消えたのだ。

 ……見つかったのは、胎児らしき亡骸だけだった。

 この記事は、オカルトマニアの間でときたまに話題に上がる怪事件として扱われている。

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