もう傷つけ合わなくていいだろ?


    * * *



 ミハヤ、カザネ、ウズエの三人が山頂に辿り着くと、そこは静けさに満ちていた。

 周りには巨大な蜘蛛の群れの残骸らしきものが無数に横たわっていたが、いずれも灰となって消滅していった。

 周囲に邪悪な霊気も感じられない。

 澱んでいた空気も山にふさわしい澄んだものへと戻りつつあった。

 そして救出対象であるルカがダイキに寄りかかっているのを見て、三人の女傑たちは目的が達成されたことを把握した。


「あらあら~。一歩遅かったかしら~?」

「ふむ、どうやら無事に終わったようじゃの」

「ん。こっち的には不完全燃焼だけど、よかったよかった」


 三人は近くで腰を下ろして一息吐いているツクヨのもとへ歩いた。


「無事であったかツクヨ」

「カザネさん。そちらもご無事で。オレは正直……ヤバかったです。金髪の嬢ちゃんの霊装がなかったら……そしてダイキがいなければ、熔の占い通り死んでました」

「ほう。とすると、ダイキは……」

「はい。ついに四匹の霊獣を目覚めさせました。大したヤツですよ。この一夜で、二体も侵徒を倒したんですからね」


 四人の師の目線は愛弟子であるダイキの背中に向けられる。

 心なしか、以前よりも男前になったように感じられた。


「あらあら~。ダイちゃんったら一皮も二皮も剥けたみたいね~。あん、お姉さんお腹がウズウズしてきちゃうわ~」

「ん。ますますあたし好みになった。そろそろ食べ頃……」


 ミハヤとウズエはうっとりダイキを見つめながら「じゅるり」と肉食動物のごとく舌舐めずりをした。


「これ、このような場所で昂ぶるでない。そしてさすがに空気を読めぃ。ようやっと愛しのおなごを助けられたんじゃからのぅ。しばし二人きりにしてやれ」


 いまにもダイキに飛びかかろうとするミハヤとウズエの襟元を、カザネが掴んで止めた。

 一方、ダイキとルカは勝利の喜びを、まだ分かち合ってはいなかった。

 目の前に、邪心母の首がまだ残っていたからだ。

 灰となって徐々に消えていく邪心母の最期を見届けるまで、二人は目を逸らさなかった。


「……やだ。私、まだ、消えたくない……怖い……誰か、助けて……」


 首から上だけになった邪心母は、涙を流しながら虚空を見つめた。


 ──お前が命を奪った人間たちも、同じ恐怖を味わった。


 他の者ならそんな月並みな言葉を邪心母に向け、冷めた目線を投げたに違いない。

 実際、ダイキは口にしかけた。

 口にしようとして、やめた。

 邪心母を手にかけた自分だけは、それを言ってはいけない気がした。

 清香の仇を討てた。それで、もう充分だった。

 これ以上、邪心母を絶望に追い詰め、恐怖を与えるのは、何か間違っていると思った。

 ダイキ自身、奇妙な心地だった。

 あれだけ憎かった邪心母の終わりを目の当たりにして、言葉にしがたい胸の痛みを覚えた。


 どうして、こんなことになってしまったのか。

 こんな最期を迎えるために、彼女は生まれたのか?

 外道に堕ちず、ヒトをやめずに済むような選択肢が、彼女には無かったのだろうか?


 いまとなって、そんな「もしも」の想像ばかりが浮かぶ。

 ルカも言っていた。

 邪心母は、ダイキやオカ研の皆と出会えなかった「もしも」の自分だと。

 もしかしたら、いまこの世で邪心母の痛みを理解できるのは、ルカだけなのかもしれない。

 だからこそ……ルカは、邪心母の首を抱き上げた。


「ごめんね」


 胸元に邪心母の首を抱き寄せ、ルカは切なげに謝った。


「怖いよね。苦しいよね。でも、ここであなたを終わらせなきゃ、もっと怖いことや苦しみが増えてしまうから。見知らぬ誰かが、そしてあなた自身も、いつまでも不幸になるだけ。だから、どうかお願い──もう、眠ろう?」


 そっと邪心母の頭を撫でながら、ルカは涙を流した。

 雫が落ちて、邪心母の頬を濡らす。


「……何で、泣いてるのよ? 私、あなたに散々酷いことをしたのよ!? そんな相手に何で涙を流せるのよ!?」

「何でだろうね。あなたのしたことは決して許されないのに。どうあってもあなたが奪ったものは戻ってこないのに。でも……祈らずにはいられないんだ。あなたが来世では、どうか化け物なんかにならないようにって。今度こそ、普通の人生を歩んでほしいって」

「え?」

「だから、ちゃんとあっちで罪を償って。どれだけ気が遠くなる時間がかかっても、ちゃんと許されるまで……」

「あ……あぁ……」


 再び邪心母の瞼から大粒の涙がこぼれる。


「うわぁぁあぁ! やめろよぉぉ! 憐れむな! そんなの、望んでないのよ! そんな言葉で救われるとでも思ってるの!? 憎みなさいよ! 最後まで、私のこと嫌っててよ! 騙して、裏切って、傷つけて、すべて奪おうとした私を怨みなさいよ! 私は……化け物なんだよ! 人間の優しさなんて、今更いらないのよ!!」

「……そんな悲しいこと言うな」


 ダイキは邪心母の頭に手を置いた。

 まるで、泣きわめく幼児をあやすように。


「俺は、アンタが憎いよ。許すことは決してできない。だけど……もう傷つけ合わなくていいだろ?」


 決着はついた。

 因縁は切れた。

 悲しみの連鎖は、もうこれで終わらせなければならない。

 ダイキの瞳にも自然と涙がこぼれた。

 ああ、命のやり取りとは、なんて悲しいのだろう。

 憎しみ合って戦うことが、どれほど虚しいものか。

 和解の道など決してない。

 失った者たちのためにも、許すことは絶対にしてはならない。

 だから……願うしかない。

 来世ではきっと、そんな悲しい結末にならないことを。


「……教育実習生のあんたと話せた時間は、楽しかったぜ? たとえアレが演技だったとしても、偽りのものだったとしても……あのとき感じた楽しいって気持ちは本物だったよ──牧乃先生」

「ぁ──」


 水坂牧乃。その名が本物かはわからなかったが、ダイキは最後にそう呼ぼうと思った。

 彼女の魂がちゃんと、ヒトとして戻れるように。

 ルカに抱きしめられ、ダイキに頭を撫でられる邪心母は、あたかも赤子のようだった。


(……温かい。これが、生きている人間の温もり。私たち死者にはもうない……かつて、あったもの……)


 邪心母はゆっくりと瞳を閉じた。

 二人の生者の温もりが、遠い記憶を呼び覚ます。


(……そうだ。私は、こうして抱きしめてほしかったんだ。お父さんに、お母さんに……)


 牧乃、大好きだよ。

 抱きしめながら、そう言ってほしかった。


 牧乃。

 それはまぎれもなく、邪心母の生前の名だった。

 人間をやめ、侵徒となって、仲間から邪心母と呼ばれるようになっても、その名前だけは忘れたくなかった。捨てられなかった。

 なぜなら──両親に貰った、たったひとつの贈り物だったから。

 そう。たとえそれが、自分を捨てた両親がつけた名前であっても。






 幼い頃の牧乃の記憶では、両親はいつも喧嘩していた。

 駆け落ちしてまで結ばれた二人だったのに、いざ夫婦となるとお互いのイヤな一面ばかりが気になるようになってしまったようで、毎日お互いを罵り合った。

 子どもの前でも関係なく、汚い言葉を使っていた。


 父は気づけば家を出て行った。

 残された母は牧乃を育てるため、慣れない労働に勤しみストレスを溜め、酒に溺れた。

 何でこんな毎日を送らないといけないんだと、牧乃に当たるようになった。

 それでも牧乃は母を嫌いになれなかった。どうすればお母さんが幸せになってくれるか、必死に考えた。

 似顔絵を描いた。花を取ってきて飾ってみた。下手なりにお菓子を作ってみた。

 どれも、怒り狂った母に壊された。

 こんなラクガキが腹の足しになるか。花なんて世話が面倒だ。貴重な食材を無駄にするな。

 腫れるくらいに頬を叩かれ、コブがいくつもできるほどに頭を殴られた。


 ──ごめんなさい、お母さん。私がもっと出来の良い子だったら……お願い。私のこと見捨てないで!


 牧乃はただ必死だった。

 母にまで捨てられたら、どうやって生きればいいのかわからない。

 自分は母のために役立てる。それを証明したかった。


 ──いまは無理でも、働けるようになったらいっぱいお金を稼ぐから! 節約できる料理も覚えるよ! お母さんだけに負担はかけないから! お母さんのために生きるから! だから! だから! だから! ……お母さん!


 願いは虚しく、終わりのときは訪れた。


「あんたなんか、生まなきゃよかった」


 心底疲れた顔で、さもどうでもいいように、母は荷物をまとめて出て行った。


 ──……いや。独りは、いや! お願い、お父さん、お母さん……私の傍にいてよ!


 どれだけ泣き喚いても、牧乃を抱きしめる存在はいなかった。

 そうして牧乃は孤児となり、施設に入れられた。


 そこからさらなる地獄が待っているなど、牧乃は想像もできなかった。

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