妖魔八大将


 消えゆく影浸を、邪心母は呆然と見つめた。

 彼の頬を包み込んでいた両手は、いまや何も無い空間で途方もなく震えるだけだった。


 消えた。

 影浸が消えた。

 この世から、いなくなってしまった。

 その事実を、邪心母はいまだ受け入れられずにいた。

 悪い夢でも見ているようだった。

 だって影浸は無敵で、どんなときも必ず自分を守ってくれた。

 負けるはずがなかった。今回だって、いつものように助けとなってくれる。

 そのはずだったのに。

 なのに、なのに、なのに……。


『見たかったんだ。君が幸せに笑うところを』


「影浸……」


 知らなかった。

 彼がそんな風に自分のことを思ってくれていたなんて。

 いつも尋ねていた。どうして自分のためにそこまでしてくれるのか、と。

 影浸はいつも「さあな。俺にもよくわからん」とぶっきらぼうに答えるだけだった。

 最期の最期に、彼は本心を明かしてくれた。


「あ……ああっ!」


 家族が欲しかった。

 そのために無数の怪異を喰らってきた。

 たくさんの子どもたちを産み落としたが、それでも邪心母は満足できなかった。

 足りない、もっと欲しい。

 孤独を癒す、心の隙間を埋めてくれる家族をより求めた。

 だが……本当にそうだったのだろうか?

 気づいていなかっただけで、本当に欲しいものは、すでに近くにあったのではないか?


(私が、本当に欲しかったのは……)


 理想の家族を造りたい。

 邪心母がそう嬉々と語るとき、影浸はいつも話半分で聞くだけで、肯定も否定もしなかった。

 けれど……黒衣の向こうで、静かに微笑んでいたように思う。

 あの眼差しも、穏やかな時間も、もう二度と、戻ることはない。


「うわああああああああああああ!!!!」


 掛け替えのないものが喪失したことをようやく自覚して、邪心母は狂乱した。

 そして……膨大な闇が邪心母から溢れ出した。



    * * *



「うわああああ!!」

「ダイキ!」


 影浸の消滅に唖然していると、とつぜん邪心母に異変が起きた。

 黒々としたエネルギー波が爆発し、その勢いで俺は吹っ飛ばされる。


「これは……まさか!?」


 影浸のときと同じ危機感が募る。

 凄まじい霊気を放出しながら、邪心母は己の心臓を取り出していた。


「原初の闇よ──我が心臓を捧げる」


 やっぱり! 邪心母も魔骸転身をする気だ!


「全員で止めるぞ! アイツに魔骸転身をさせるな!」


 ツクヨさんが声をかけ、総出で邪心母に飛びかかる。

 だが……。


「ぐおおお!?」


 稲妻のごとき霊気が俺たちの行く道を塞ぐ。

 なんだ!? このデタラメな霊力は!

 もはや魔骸転身したときの影浸以上の力だぞ!?


「……影浸、私もあなたと同じになるわ。これでお揃いね」


 血の涙を流しながら、邪心母は微笑んでいた。


「待っていて。私もあなたと同じ場所に行くから……コイツらを皆殺しにしてね」


 ゾクリ、と皮膚が粟立つ。

 今宵、最後の悪夢が幕を開ける。

 そんな悪寒をいだかせる言葉が邪心母の口から放たれる。


 ──魔骸転身



    * * *



 ツクヨを除く紫波家の女傑たちは、無数の合成怪異との戦闘を続けていた。

 屠っても湯水のように次々と湧き出る軍勢であったが、とつぜんピタリとその動きを止める。


 ──ギィィィィィ!!?


 合成怪異が一斉に奇声を上げ、その体が分解されていく。

 禍々しい光を放つ塵と灰は、そのまま山頂に向かって飛び散っていく。

 まるで集合を呼びかけられるように。


「あらあら~。急にみんないなくなっちゃったわね~」

「いやな予感がするのう。どうやら我が輩たちも山頂に向かったほうが良さそうじゃ」

「ん。行こう」


 歴戦の戦士としての勘が、女傑たちの足を急がせた。



    * * *



 山頂に伸びゆく巨影を前に、俺たちは息を呑んだ。

 下半身を中心に、邪心母の姿がおぞましい異形へと変質していく。

 毒々しい紫色に艶光る巨大な足。

 それが何本も邪心母から生えてくる。

 それは蜘蛛の足だった。

 邪心母の下半身だけが、巨大な蜘蛛と化していく。


「ああ、これが真の闇の力。気持ちいい……とても気持ちがいいわ!」


 女性の声と異形の声が混じり合った不気味な嬌声を上げながら、邪心母の上半身も紫色の異形へと変わる。

 頭部からは、まるでウェディングベールのように半透明の粘膜が垂れ流れ、目元からは無数の眼球が浮き出てきた。


 女郎蜘蛛。

 邪心母は、そう形容するに相応しい邪悪な姿となった。


「……冗談でしょ? いまから、こんなのと戦わないといけないの?」


 神木刀を震わせながら、キリカが呟いた。


「なんですの? この異常な霊力は? 先ほどの影浸とは比べものになりませんわ! まさか……喰らってきた怪異すべてを霊力にしているとでも言うんですの!?」


 アイシャすらも顔を蒼白にしていた。


「その予想で間違ってなさそうだ。なんて女だ。いったい、いままでどれだけの怪異を喰らってきたんだ? いまのアイツは、無数の怪異を溜め込んだ要塞みたいなもんだ!」

「──っ!?」


 ツクヨさんの言葉に俺たちは言葉を失う。

 俺にもわかる。

 この圧倒的な威容は、ただ図体がデカいだけによるものではない。

 いまの邪心母は、この山脈地帯を軽々と滅ぼせるほどの力を得た。

 霊獣を宿したいまの俺には、それがわかってしまう。


「さあ、産まれいでなさい。私のかわいい闇の仔たちよ」


 さらなる悪夢が俺たちを迎える。

 でっぷりと膨らんだ蜘蛛の腹の亀裂から、無数の子蜘蛛が「キィキィ」と奇声を上げながら顔を出す。

 吐き気を催す光景と、その子蜘蛛が持つ膨大な霊力を感じ取って怖気が走る。

 なんてことだ。

 あの子蜘蛛の一匹いっぴきが、魔骸転身した影浸と同等の力を持っている!

 子蜘蛛は腹の中に挟み込まれたまま、必死に足を動かし、外に出ようとしている。

 まずいぞ。あんな数が一斉に解き放たれたら!


「俺がいますぐ邪心母の本体を倒す! きっと影浸のときのように、俺の霊力なら特効が働くはず……ぐっ!」


 邪心母を討伐すべく体を動かそうとすると、とつぜん目眩が起こり、フラつく。

 スズナちゃんが『ダイキさん、しっかり!』と浄耀鐘を鳴らすが、謎の疲労感は抜けない。


「バカヤロウ! 霊力の使いすぎだ! 金髪の嬢ちゃんの霊装で治るのは体の傷だけで、霊力まで回復するわけじゃねえ!」


 ツクヨさんが俺の体を支えながらそう一喝する。


「あまり調子に乗るな! お前はまだ霊獣の力を使い慣らしているわけじゃないんだぞ!」

「でも師匠……このままじゃ!」


 俺だけでなく、師匠も、キリカもアイシャも、連続の激戦でほとんど霊力を消耗している。

 こんな状態で戦うのか? あの魔骸転身をした邪心母と!


「……やむを得ませんわね! わたくしの『聖域創成』で一か八か賭けてみましょう! というわけでクロノ様! 術式発動の儀式のためにわたくしと愛の営みを……」

「待って、皆。ここは私がやる」


 アイシャが何やら要求をする寸前で、ルカが俺たちの前に出る。

 何やら覚悟を固めたような、毅然とした態度で。


「ル、ルカ!? 無茶だ! お前だって邪心母との融合の影響で、霊力を消耗しているはずだぞ!」

「そう、邪心母とひとつになったことで、わかったの。──彼女は、救わなきゃいけない人なんだって」

「え?」

「うっすらとだけど、彼女の過去を見たの。あの苦しみ、悔しさ、絶望を知ってしまったら……私、あの人をもう他人と思えないの。あの人は『もしも』の私。皆と出会えなかったら、今頃私も、あんな姿になっていたかもしれない」


 強い憐憫を声に混ぜて、ルカは邪心母を見据える。


「彼女は、ずっと泣いている。心の奥で、ずっと、子どものように。だから──助けなくちゃ」


 カキン、と錠の外れるような音が響いたかと思うと……ルカから膨大な霊力がほとばしった。


「こ、これは!?」


 見える。

 ルカにかけられた『禁呪』が解呪されたのを!

 本来の霊力の総量を取り戻したときのように、ひとつの禁呪を……いや、これは!


「すべての『禁呪』が、解けた!?」


 人間相手に霊術を行使できない禁呪が。

 霊術の出力を制限する禁呪が。

 璃絵さんによってかけられた三つの禁呪のすべてが無くなった!


「ル、ルカ! あなた……」

「な、なんて霊力ですの!? これが……これがすべての縛りから解き放たれた本来のルカ!」

『ルカの霊力の色が、白銀色に!』

『なんて綺麗な霊力でしょう……』

「マジかよ……この力、璃絵さんと同等の……いや、ヘタしたら璃絵さん以上の……」


 全員がルカの本来の力を前に瞠目する。

 俺も久しぶりに見た。

 そうだ。これが、本来のルカの姿なんだ。


 ──『銀色の月のルカ』。

 その主人公たるにふさわしい力を取り戻して、ルカは白い輝きと共に佇む。


「お母さん、私もう大丈夫だよ? この力を、正しいことに使っていく。だから……あなたたちも力を貸して! 『百鬼夜行』!」

「っ!?」


 呼びかけに応じるように、八本の糸がルカの体から飛び出す。

 あれは……紅糸繰の糸!

 それぞれ異なる色彩に輝く糸は、宙に浮かびながら形を変えていく。


「あれは……」


 日本画に使われる掛け軸のようなものが八枚、出現する。

 八枚すべての掛け軸の表面には、液体に垂らした墨のような黒い濁りが漂っていた。

 八枚の掛け軸と、ルカはまっすぐ向き合う。


「……あなたたちだよね? 私に呼びかけていた八体は」

『然り』


 八つの声がルカの問いに応じる。


「懺悔樹を倒すときに力を貸してくれたのも、あなたたちの内の誰かだったんだよね?」

『然り』


 掛け軸の一枚から玲瓏な女性の声が響く。


「なら、もう一度、力を貸して! 皆を守るために! そして……あの人をこれ以上苦しませないために!」

『……』


 ルカの懇願に七枚の掛け軸は沈黙を貫く。

 一枚の掛け軸だけが、ルカの前にゆっくりと進み出る。


『ルカ。他の七体はどうかは知らないけれど、私は最初から決めていたわ。あなたがすべての禁呪を解呪したときは、あなたの力になると。璃絵に、そう誓ったの。やっとあなたのために力を貸せるわ』


 一枚の掛け軸が青白い光を放つ。


「うっ!?」

「なに!? この光は!?」

「この気配……霊能力者とも怪異とも違う! まさか!」


 これまでに感じたことのない特殊な気配。

 それが、ルカの身の内から生じてくる!


『あなたのことは、娘のように思っているわ。さあ、いまこそ名乗りましょう。妖魔としての私の名を』


 掛け軸から墨のような濁りが消滅する。

 その表面には、鬼の面を被った着物の女性が描かれていた。


『私は人型の妖魔を統べる頭領──名は……』

「……わかった。じゃあ、呼ぶね。あなたのことを」


 ルカは手を前にかざし、ひと呼吸置いて、口を開く。


妖魔八大将ようまはちたいしょういちしょう──雪女『雹妃ひょうき』!!」


 山頂に、季節にふさわしくない雪風が巻き起こる。

 ……感じる。

 ルカの中から、強大な何かが出現したことを。


「あれは!」


 ルカの背後に付き従うように、鬼の面を被った白い着物の女性が浮いていた。

 それは掛け軸に描かれていた絵と瓜二つの姿であった。


『さあ、行きましょうルカ。あなたの信じる道へ、私は付き従うわ』


 着物の女性の言葉に、ルカは頷きを返し、異形と化した邪心母を見る。


「……待ってて。いま私が解放してあげる。だから……もうこれ以上、自分の魂を穢さないで」


 山頂の大地の凍てつかせながら、ルカは邪心母のもとへ向かっていく。


「さあ──悪夢を終わらせましょう」

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