存在しない兄
幼い頃の記憶は、母親にぶたれたことしか思い出せない。
「なんでよ! なんで私の遺伝子からこんな醜い化け物が生まれるのよ!」
母親は顔だけがいい、頭の足りない水商売の女だった。
だから、すぐに男に捨てられる。子どもを身籠もろうとも関係なく。
影浸はそんな女のもとに生まれ、虐待され続けた。
道行く人々も、学校の教師すらも、幼い影浸を気味悪がった。
見苦しいから顔を隠せと、いつも半面を覆えるようなパーカーを着せられた。
食事は最低限しか与えられなかったから、体は痩せ細り、肌色も不健康で、より見た目の不気味さが増した。
学童たちからは『化け物』と罵られ、石を投げられた。
いつしか学校には通わなくなり、図書館で時間を潰すようにした。
必要な知識はそこで身につけた。特に『ひとりで生きるにはどうすればいいのか』……そういった知識を集めた。
早く家を出て、母親のもとを去り、自由に生きたかった。
できれば誰も人のいないような場所で、ひっそりと暮らしたい。
そんな夢をいだいた。
影浸の人生に転機が訪れたのは、妹の佳蓮が生まれてからだった。
またどこぞやの男から種を貰い、一方的に捨てられた母親。
しかし、母親は笑顔だった。
生まれた佳蓮が、あまりにも可愛らしかったからだ。
「ああ! これよ! これこそ私の遺伝子から生まれた子どもよ! なんて愛らしいの! 私の愛をすべて注ぎ込んで育ててあげるからね!」
母親の関心はほとんど妹に移った。
おかげで殴られる頻度は減り、影浸は安心した。
妹のおかげで、はじめて家の中で平穏な時間を手にすることができた。
……正確には「家にいない者」として扱われるようになっただけだったが。
「はい、佳蓮ちゃん。お顔をママに見せて? あそこには何もいないでしょ? そうよ。ウチにはお兄ちゃんなんていないの。いない人間のこと見ちゃいけないの。わかった?」
母親は妹を溺愛した。
綺麗な服を与え、食事も美容を意識したものを与えられ、徹底した管理のもとで育てられた。
習い事にもよく通わされた。
家の金のほとんどは、妹の教育に費やされていった。
妹は要領が良かったので、どんな習い事もそつなくこなした。
きっとそういう才能や素質は、どこぞやの父親から遺伝したのだろう。
妹は見事に両親の良いところだけを継いだようだった。
「ママはね! バレエもしたかったし、ピアノも上手になりたかったし、お芝居もやりたかったの! 佳蓮ちゃんならママの夢を代わりに叶えてくれるわよね! ああ、本当に可愛い子! ママの宝物!」
母親の寵愛を独り占めする妹に、特に嫉妬は湧かなかったし、羨ましいとも思わなかった。
静かに暮らせれば、もうそれで充分だった。
ただ……時折、兄である自分を不思議そうに見てくる妹の目だけがいやだった。
(……やめろ。俺を見るな。母親の言うとおり、俺なんていないものとして扱えばいいんだ)
そうだ。自分は『影』だ。
この家には存在しない『影』も同然。
だから、早くこの家を出よう。
そのほうが自分にとっても、妹にとっても最善だと思った。
妹は自分と違って、母に愛されている。あとは不穏分子である自分が消えれば、穏やかな未来が待っているはずだった。
やがて影浸は地上げ屋の仕事を始めた。「その化け物みたいな顔は脅しに使える」と雇われたのだ。
事実、影浸の顔は有効に働き、組から重宝された。
ようやく金の目処が立ち、独り立ちするための算段が整った。
帰りはいつも深夜になったが、特にうるさく言われることはない。
狭い寝床で現金を数える。
そんな日々が続いた。
……ある日、妹が寝床に入ってきた。
「……自分のところで寝ろ」
そう言っても妹は離れなかった。
縋るような瞳で、兄を見つめていた。
「……おにいちゃん、家、出てくの?」
「……ああ、出て行く」
「……一緒に行っちゃダメ?」
「は?」
影浸は耳を疑った。
何を言っているのだろう、この妹は。
あれだけ母親に溺愛されて贅沢三昧をしておきながら、この暮らしのいったい何が不満だというのか。
「おにいちゃんと、一緒にいたい」
「……ダメだ。来るな」
どちらにせよ、影浸の仕事は真っ当なものではない。
そんな人間のもとへ付いてきて、幸せになれるはずがない。
影浸は妹を突き放した。
わからなかった。
妹はなぜ、こんな自分と一緒にいたがるのか。
「家を出てまで、俺といたいのか? 毎日、こんな醜い顔を見ることになるんだぞ?」
脅かすつもりで、素顔を妹に近づける。
怯えてすぐに自分の寝床に戻ると思った。
しかし、妹はそっと兄の顔に触れた。
「……醜くないよ?」
「……なに?」
「とっても優しい眼をしてる。私、おにいちゃんの眼、好き」
これまでにない感情が、影浸の胸に広がった。
ワケもわからず、涙が出た。
妹は兄の胸に顔を埋め、きゅっと服を握った。
「一緒に行けないなら、せめて何か、おにいちゃんから貰いたいな」
「……待ってろ」
影浸は私物を押し込めた籠から、押し花の栞を取り出した。
昔、図書館のイベントで造ったものだった。
妹が花の図鑑を読むところをよく見ていたので、きっと花が好きなのだと思った。「ほら」と手渡すと、妹は目を輝かせて、押し花の栞を胸の中に抱いた。
「ありがとう。これをおにいちゃんだと思って、大切にするね? おにいちゃんからの初めてのプレゼント、嬉しい……」
そのときようやく、自分が妹に誕生日プレゼントすら渡したことがなかったことを思い出した。
一緒に暮らしているのに、こんなにも繋がりが薄い兄妹がいるだろうか。
そのことに、影浸はひどく切ない気持ちになった。
「たまには、帰ってきてね?」
「……いいのか?」
「うん。私も、会いに行く」
「……どうしてなんだ? お前は、俺が怖くないのか?」
「全然。だって……家族だもん」
「……そうか」
この子の幸せのために、自分は生きよう。
影浸は静かにそう誓った。
仕事の帰りに、貯まったお金で花束を買った。
もっとちゃんとしたものを妹にプレゼントしたかった。
そして家に帰ると……。
血まみれで倒れる妹と目が合った。
「──ぁ──は──?」
妹の体は、あちこちが傷だらけだった。
何度も何度も、刃物で刺されたような傷跡だった。
「佳蓮!!」
急いで駆け寄ると、辛うじてまだ息が合った。
「……お、にぃ……ちゃ……」
「喋るな! 待ってろ! すぐ病院に!」
「逃、げ……て……」
「え?」
背後から鋭く冷たいものが影浸の心臓を貫いた。
「あ……が……」
まさか組と敵対している者が……そんな考えをよぎり、背後を振り返る。
しかし、そこにいたのは母親だった。
老いを誤魔化すため、厚化粧した顔が、鬼のような形相で、息子と娘を睨んでいた。
「……この出来損ないどもがよおおおお! 美しい私の遺伝子を継いでおきながら、なんでこんなダメな子しか生まれないのよおおおお!!」
正気ではなかった。
完全に錯乱した状態で、母親は包丁を振り回した。
その包丁にはベッタリと血がついていた。
「ここまで手塩かけて育ててやったっていうのによおおお! 私よりもこの醜い化け物と一緒にいたいってのかよおおお!?」
母親は繰り返し影浸の背中を刺した。
何度も何度も、憎しみを込めて。
「子どもは育て親に恩返しすべきでしょ!? 佳蓮はママのために大物にならなきゃいけないの! お金持ちになってママを幸せにしなきゃいけないの! なのになのになのに! どの習い事も中途半端なところで他の小娘に負けやがってよおおお! ママがここまで英才教育してやったっていうのにぃぃぃ!」
倒れ伏し、ぼやける意識の中、影浸は見た。
目の前に倒れる妹の服の切れ込みから、刺し傷とは異なる傷跡があることに。
それは幼い頃に何度も見た、打撲の痕だった。
ああ、と影浸は己の愚かさを嘆いた。
なぜ、気づいてあげられなかったのか。
妹も、ずっと虐待を受けていたのだ。
言葉と態度だけでは溺愛されているようにしか見えなかったが、影浸の見えない場所で殴られていたのだ。
きっと、教育と名目で。
妹のあの目線は、兄である自分に助けを求めていたのだ。
ずっと、ずっと、ずっと……。
「死ね! 役に立たないガキは死ねぇ! 何よ! ママのプレゼントよりもそんな化け物が造った栞が大事だってのかよ!? 何が『それだけは取らないで!』だよ! 娘の分際で母親に口答えしてんじゃねえよ! 佳蓮ちゃんはママの言いなりにならないといけないの!」
痛みはもはやない。
あるのは、燃えるような怒りだけ。
どうして、こうなるまで放っておいていたのか。
どうして、こんな女をいつまでも生かしていたのか。
「どうして!? どうして理想的な子どもが生まれないの!? アンタたちが……ママの
さんざんこの女から『化け物』と言われ続けた。
だが違う。
本当の化け物は……。
(お前のほうだ!!!!)
憎悪に焼かれながら、影浸の命は事切れた。
そして……闇の囁きがあった。
──かわいそうに。辛いね? こんな最期、納得できないよね?
それは、いやに優しい声色だった。あまりにも優しくて、逆に不気味だった。
(誰だ? この声はいったい……)
感覚がなくなったはずの体を、誰かが抱きしめていた。
氷のように冷たく、怖気が走った。
──私があなたを蘇らせてあげる。そして、やりたいことをやろ? 我慢しないでいいんだよ?
ソレは耳元で囁く。
甘美で、底冷えするような慈しみを込めながら。
──あなたも今日から家族。もう寂しくないよ? 私が、あなたを愛してあげる。
影浸は感じた。
自分の体が、何か別のものに変わっていくのを。
制御できない変質に、原始的な恐怖が満ちる。
(あ……や、めろ……い、いや、だ……俺は……ヒトとして、死にたい……)
拒むように震える手を、しかし黒い影に包まれた手が握りしめる。
──そんな悲しいこと言わないで? あなたは望んでいるはずよ? もう一度やり直したいって。
……そうだ。
こんな最期に納得できるはずがない。
自分が望んでいること。
本当の化け物を。
妹を殺めた化け物を、この手で……。
──さあ、あなたのユメを叶えましょう?
かくして、ひとりの少年は、生ける屍となった。
最初の獲物は、実の母親。
「いやああああ!! 私の顔がああああ! 私の美しい顔が、爛れていくぅぅぅ! 死ぬしかない! 美しなければ死ぬしかないぃぃぃ!」
「ああ、さっさと死ね」
狂乱する母親の体を影の刃で細切れにした。
復讐は成し遂げた。
それで、影浸の目的は終わった。
妹はもう事切れていた。
影浸は静かに妹の亡骸を抱きしめ、泣いた。
* * *
妹の亡骸は、人気の無い花畑に埋めた。
影浸が行きたい場所に行きたいと願うと、影が道を造り、自在に行き来することができた。
「これが、俺の力……」
人智を超えた力を得た。
だが、それで何をすればいいのだろう?
やりたいことはやった。
……ならば、後はどうすればいい?
影浸は当てもなく、世界を彷徨った。
気づけば肉体は、ある程度成長したところで止まっていた。
もうこの先、老いることはないのだと体感でわかった。
時折、自分を殺そうとする人間たちと鉢合わせた。
恐ろしい侵徒め、と言い放ち、超能力を使ってきた。
影浸は自衛のためにその者たちを殺した。
生きる理由などないくせに、火の粉を振り払い続けた。
そうしていく内に、影浸の力は強まっていき、凶悪な技が増えていった。
ある日、ひとりの女性が複数の超能力者たちに襲われていた。
すっかり沈黙していたはずの影浸の感情が、珍しく燃え上がった。
重なってしまったのだ。
その女性が妹と。
「助けてくれてありがとう。あなた、強いのね」
超能力者たちを瞬殺すると女性は嬉々として影浸に礼を言った。
「その紋章……あなたも侵徒なのね! なら仲間だわ!」
女性は自分を『邪心母』と名乗った。
仲間内からそう言われているらしい。
「ねえ、あなた良かったら私のボディーガードになってくれない? 実は私まだ侵徒になりたてで、まだうまく力を使えないの。あなたみたいに強い人が傍にいてくれれば、安心だわ」
「……お前は、俺を必要としているのか?」
「ええ! あなた優しそうだし、なんだか一緒にいて安心できるわ!」
「そうか……お前がそう望むなら、俺の力を貸そう」
生きる意味ができた。
そう思った。
本当に大切だったものを守れず、生まれてきた意味すら見つけられなかった虚無な自分に、ようやく役割が与えられた。
(俺は……誰かに必要とされたかったのか)
死して生ける屍となって、影浸はようやく己の願望を知った。
邪心母を霊能力者の手から守ることで、自分の存在意義を感じた。
そうしていくうちに、人間だった頃の記憶も薄れ、一番大切だった存在すらも忘れてしまった。
そうしなければ……心が耐えられなかったからだ。
もうとっくに、人の心など失っていたのに。
──そんなことないよ? おにいちゃんには、ちゃんと残ってるよ。優しかった頃のおにいちゃんの心が。
影浸の意識が現在へと戻る。
灰として消えゆく自分の傍に、妹の佳蓮が寄り添ってくれていた。
(佳蓮……守れなくて、ごめん! 不甲斐ない兄で、ごめん!)
佳蓮は笑顔で首を横に振った。
──いいの。おにいちゃんが、最期におにいちゃんに戻ってくれたから。私、それだけで嬉しい。お帰りなさい、おにいちゃん。
温かな光が、影浸を包んだ。
黒衣は消え去り、人としての体へと戻っていく。
(ずっと、待っていてくれたんだな。でも、ごめん。俺は、お前とは同じ場所には行けない)
母を始め、多くの霊能力者を殺めてきた。
この魂は、然るべき場所に行くだろう。
佳蓮は寂しげに眼を細めるも、必死に笑顔を作った。
──私、またおにいちゃんの妹に生まれたい。そのときはきっと……幸せになろう?
ああ、今度こそ約束しよう。
どれだけ長い時がかかるかはわからない。
だが妹がそう望むなら、兄として叶えてあげたい。
祈ろう。
今度は、優しい母親の元に生まれるように……。
(母親……)
邪心母は、母親になりたがっていた。
影浸にとっては、忌々しい記憶を思い起こさせる彼女の夢。
それなのに、なぜ彼女のためにここまで身を挺してまで戦ったのか。
妹に面影を重ねていた?
……いや、違う。きっと──。
「見たかったんだ。君が幸せに笑うところを」
その言葉を最期に、影浸は灰となって消えた。
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