立ちはだかる影浸


 すぐそこにルカがいるのに。

 あと少しで助けられるのに。

 黒い影が俺の行く手を塞いでる。

 泰然と佇む細長いシルエット。

 枯れ枝のように頼りない、一撃を叩き込めば呆気なく折れてしまいそうな体躯だというのに……俺はその影が放つ重圧を前に一歩も動くことができなかった。


「フー……フー……」


 息が荒くなっていく。

 一瞬たりとも、奴から目を離したりはならないと本能が告げている。

 少しでも気を抜けば……死ぬ。

 それが嫌というほどわかるのだ。

 あらゆる怪異と遭遇し、幾度と命の危機を覚えてきたが……こんなにも死を想起させてくる相手は初めてだ。


 常闇の侵徒、影浸。

 やはりコイツは、いままでの敵とは格が違う!


「……ダイキ!」


 ルカの不安な叫びが届く。

 それは助けを求める声色ではなく、俺の身を案じるものだった。


「ダメだよダイキ……ソイツと戦ってはダメ! 死んじゃうよ!」

「ルカちゃんの言う通りよ。影浸を相手にして生き残った人間はいないわ」


 邪心母が我が事のように自慢げに笑う。


「影浸は無敵よ。どんな霊能力者も為す術なく影浸に殺される。そうやって彼はいつも私を守ってきてくれたの。そうでしょ、影浸?」

「お前がそう断言するのなら、俺は影としてその信頼に応えよう」


 邪心母の言葉を受けた拍子に、影浸は黒衣を翼のように翻す。


「お前は儀式を継続しろ。すぐに片付ける」

「ええ、お願いするわ」


 皮膚が粟立つ。

 いますぐにでも、ここから逃げろと頭の中で警報が鳴り出す。


 ……来る!

 影浸が、動き始める!


「貴様らに恨みはないが──消えてもらう」


 黒衣の先端が粘土のように伸び、鋭い鎌へと形状を変える。

 ……まずい! 動け! 


 ……そう思ったときには、もうすでに手遅れだった。


「あ……」


 まるで巨大な岩石のように硬質化した黒衣の刃が、音速で迫ってくる。

 風を切る音から、相当な質量を持っていることがわかる。

 ふざけるな。

 こんな大型の鎖鎌みたいなものを、予備動作も無しに投げつけやがって。

 物理法則を無視しているにも程がある。

 黒い暴風そのものとなった斬撃に、半身が抉られるかに思えたとき……


「餓狼拳!!」


 ツクヨさんの正拳突きが、鎌を撥ね返した。


「ダイキ! 相手の圧に呑まれてんじゃねえ!」

「し、師匠……」

「覚悟決めてここに来たんだろ? だったら男見せろ! 敵前で足を震わせるなんてこと教えた覚えはねえぞ!」

「あっ……」


 ツクヨさんに叱咤され、俺は自分の足が震えていることにようやく気づく。

 頭では回避しようと思っていたが、どうやら体は恐怖で竦み、動けなかったようだ。

 ……ちくしょう、なにやってんだ俺は。

 情けねえ。いまさらビビってんじゃねえよ! ルカを助けるために、ここまで来たんだろうが!


 息を深く吸い込み、全身に気をめぐらせる。

 体がゆっくりと軽さを取り戻していく。


「……すみません。もう動けます」

「おう」


 ツクヨさんの隣に立ち、構えを取る。


「いままでの修行を思い出せ。積み上げてきたものはテメェを裏切らねえ」

「押忍」


 死ぬような思いはいくらでもしてきた。

 だからもう今更だ。

 生に固執するな。

 ルカを助ける……それだけを考えればいい。

 それが、この場を切り抜けるエネルギーとなる。


「ルカ! 待ってろ! 必ず助ける!」

「ダイキ……」

「約束したろ? 皆で一緒に、楽しい夏休みの思い出を作るって」

「あ……」


 そうだ。こんな連中に邪魔なんかさせない。

 俺たちは、必ずルカと一緒に日常に帰るんだ!


「……戦士の顔つきになったな」


 影浸がそう呟く。

 黒衣の向こうで光るふたつの眼が俺を射貫く。


「いいだろう。貴様を我が敵として認める」


 黒衣が翻り、再び鎌が形成される。

 空を切り、音速で飛来する斬撃が襲いかかる。


「……瞬影」


 だが今度は冷静に攻撃の動きを追えた。

 回避技で射程距離から離脱。

 津波のような斬撃波が真横を通り過ぎる。

 斬撃が地を抉り、瞬く間にクレーターができた。

 なんて威力だ。一発でも喰らったら終わりだ。

 影浸の攻撃の壮絶な威力を見ても、不思議と恐怖心は再浮上しなかった。


「ダイキ……負けないで!」


 囚われながらも、俺を見守り、信じてくれる瞳がある。

 その信頼がある限り、俺は戦える!

 そして何よりも、俺の隣には頼もしい師匠がいる。


「焼き尽くせ──燎炫丸りょうげんまる!!」


 赤銅色の発光と共に、狼のシルエットがツクヨさんから浮かぶ。

 首元のチョーカーが変化し、牙を剥き出しにしたイヌ科のようなマスクが展開される。

 身の内に宿る霊獣を解放したことにより、ツクヨさんの体が赤い熱気に包まれる。

 両腕に装着された籠手が炎に炙られた鋼のように光り出す。


 ──餓狼拳・炎武えんぶ


 炎を纏った正拳突きが放たれた途端、空気が爆ぜる。

 砲撃が放たれたかのような拳圧は、そのまま炎の弾丸となって打ち出され、影浸に直撃する。

 凄まじい爆発が巻き起こり、影浸を中心にして炎の渦が立ちのぼる。

 ……すげえ。相変わらずなんて威力だ。


「……なるほど。これが獣憑きである紫波家の技か。大した威力だ」

「なっ……」

「言伝で紫波家の脅威は耳にしていたが、確かにこれは骨が折れるな──他の侵徒ならば」


 炎の中から声が上がる。

 黒いシルエットは健在だった。

 いや、それどころか……。


「……どうなってやがる。無傷だと?」


 ツクヨさんが動揺した声を上げる。

 炎が掻き消されると、そこには焦げ痕すらない影浸の姿があった。


「そんな……ツクヨ師匠の攻撃すら、効かないなんて!」


 あのときと同じだ。

 俺の拳も奴の体に直撃することなくすり抜けた。

 それは霊力が宿らない拳だからだと思っていた。

 だが……ツクヨさんの攻撃すらも、通じないなんて!

 いったい、どうなってるんだ!?


「言ったでしょ? 影浸は無敵よ。どんな攻撃も通じない」


 祭壇で邪心母がクツクツと嗤う。


「無駄な抵抗はやめて、潔くヤられたほうが楽になれるわよ? 影浸は優しいから、苦しむことなく一瞬で終わらせてくれるわ」

「ふざけんな!」


 たとえ無敵だろうと関係ねぇ!

 ルカを助ける! それだけは絶対に成し遂げる!


「ダイキ……あの黒いのはオレが引きつける。隙を見て、お嬢さんのところへ走れ」


 ツクヨさんが小声で耳元で作戦を言う。


「師匠。でも……」

「確かに奴にオレの攻撃は通じねえ。だが時間稼ぎぐらいならしてやれる。お前はお嬢さんを救出することに集中しろ」


 役割を考えれば、現状はそれが最適解か……。


「見たところ、あの女は何も仕掛けてこねえ。恐らく獲物を吸収している間は霊術の行使も、新しく怪異を産み出すこともできねえんだろう。あれだけの怪異を用意して、さらに護衛もつけて、オレたちを別の場所に分散させようとしたのがその証拠だ。奴はいま無防備だ。お前でもやれるはずだ」


 熔さんから貰った御札の効力はまだ残っている。

 仮に邪心母が何か仕掛けてきても、以前のように一方的にヤられる展開にはさせない。

 やるしかない。俺はツクヨさんの作戦に頷いた。


「……無駄なはかりごとは済んだか? では……終わりにしよう」

「っ!? 飛べ! ダイキ!」

「なっ!?」


 ──潜影刃せんえいじん


 黒い波状攻撃が影浸を中心に広がる。

 波状は地を這う獣のように高速で飛来し、俺たちの足下を狙う。


空歩くうほ!」


 数秒滞空可能な跳躍技で攻撃を躱す。

 いまのは足下を狙った斬撃か!?

 なるほど、相手の両足を切断して行動を封じる技ってわけか。

 コイツ……厄介な技ばかり使いやがって!


 ──疾黒しっこくやり


「はっ!?」


 空中に飛んだ瞬間を狙って、影浸が次なる攻撃を放つ。

 矢のごとく放たれたのは、黒く尖った長槍!


「猛虎裂脚!」


 すぐさま空中で旋回し、蹴りの一撃を長槍にぶつけ、打ち砕く。

 ……イケル! ツクヨさんの拳が鎌を撥ね返したように、影浸の攻撃そのものには触れることができる!


 すぐに着地し、疾走を開始。

 目指すはルカのいる祭壇。

 待ってろ、ルカ! いま行くぞ!


「……行かせると思うか?」

「っ!?」


 ──黒雨こくうじん


 無数の針が雨のように飛来する。

 まずい。これは拳で捌かなければ……


「ダイキ! 左に避けろ!」

「っ!?」


 ツクヨさんの指示が聞こえ、すぐさま左に移動する。


 ──炎ノ遠吠え


 ツクヨさんが放った特大の火球が無数の針を呑み込み、氷のように溶かし尽くす。


 ──餓狼閃刃・燎牙りょうが


 両手に弧状の炎の刃を生成させたツクヨさんが影浸の背後に回り込む。

 刃同士がぶつかり合う激音が響き渡る。

 背後からの奇襲に、影浸は黒い鎌で即座に対応していた。


「よぉ、黒いの。オレと遊んでいけや」

「……その若さで大した腕だ。久しぶりに楽しめそうだ」


 炎の刃と影の鎌がぶつかり合い、激しい火花を散らす。

 双方の激しい鍔迫り合いに、思わず固唾を呑む。


「ダイキ! いまだ! 走れ!」

「っ!? 押忍!」


 振り返らず、目的地を一心に目指す。

 たちまち背後から壮絶な戦いの余波が生じる。

 ……大丈夫だ。ツクヨさんを信じろ。あの人ならきっとやってくれ……


 ──ハッキリ言おうか? 黒野くんを連れて行かないと……君は死ぬよ、ツクヨちゃん。


 ふと、熔さんの言葉が思い出される。

 ツクヨさんが、死ぬ?

 いや、そんなはずない。

 あの人の強さは、弟子である俺が一番知っているんだ。

 負けるはずがない。

 ……悔しいが、俺が援護に回ったところで足を引っ張るだけだ。

 ツクヨさんが影浸を相手にする。俺がルカを救出する。

 いまは、これが最適解のはずだ。


 だが……何だ? この胸騒ぎは……。

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