キリカVS禍矛威
ホラー漫画『銀色の月のルカ』の世界に神は実在する。
ゆえに宗教家たちの信心深さは、転生者である黒野大輝の目からすれば元の世界の比ではないほどに深い。
神の恩恵を賜りたいと、その姿を目に焼き付けたいと、多くの人間が信仰の門を開く。
とある神父も、そんな人間のひとりだった。
神父はまさに模範とも言うべき、敬虔な神の従者だった。
ありとあらゆる善行と節制を尽くし、救いを求める人間たちに手を差し伸ばし、ときには説法で改心させた。
時代が時代ならば、歴史の教科書に名を刻んだやもしれない。
……だが、そうはならなかった。
神父の名は忌名として、歴史の闇に葬られることになったからだ。
人々に感謝される中、神父はひとり嘆いていた。
ああ、何故だろう。これだけ善行を重ね、多くの者を救ったというのに、何故、何故、何故……。
(おお、神よ。何故、わたくしの前に現れてくださらないのです?)
神に会いたい。
神の慈愛に包まれたい。
神の祝福を賜りたい。
それが神父の願いであった。
神の従者として理想的な振る舞いも、すべては神との対面のため。
だが、いつまで経っても、神が神父の前に降臨することはなかった。
ああ、いったい、あとどれだけ善行を積めば神は微笑んでくれるのか。
神父は純粋であった。
純粋すぎるがゆえに……善行から凶行へと走った。
ある日、神父は逆転の発想へ至った。
神と対面するだけなら、何も善行に拘る必要はないのではないか?
神は信徒に祝福を与える。
そして同時に……、
罪人に神罰を与える。
(……なぁんだ。そっちのほうが、簡単じゃないか)
かくして神父は狂気に取り憑かれた。
引き取った孤児たちを拷問し、犯した。
訪れる信者たちを洗脳し、蛮行を働くよう仕向けた。
教会のシスターたちに娼婦の真似事をさせた。
街の女、子どもを攫い、人体実験を繰り返した。
悪魔すらも震える凶行の数々を尽くした。
これほど罪深い存在を神が許すはずがない。
この身は必ずや神の手で裁かれることだろう。
ああ、そのときが待ち遠しい。
(早く、早く、早く、降臨なさってください。あなた様の手で、わたくしを裁いてください! それこそが……わたくしにとっての祝福!!)
神と対面できるのならば、神父にとっては神罰すらも、もはや祝福だった。
実在するとわかっているのに、一度も神に会えず一生を終えることなど耐えられない。
だから挑発しよう。
神の逆鱗に触れよう。
忌々しくも穢らわしいこの身に鉄槌が降されるまで!
だが神父の悲願が成就することはなかった。
最終的に神父を裁いたのは、人の手による正義だった。
断頭台に縛り付けられた神父は号泣した。
違う。違う違う違う! こんな結末など望んでいない!
自分は滅びるわけにはいかない。
神の威光をこの目で見るそのときまで!
その執念は首を刎ねられても消えることなく、神父を一種の怪異へと昇華させた。
狂信坊。
それは狂信に取り憑かれた神父の成れの果て。
神罰を求めて、死しても尚、悪魔の真似事を繰り返す邪霊の一種。
その自我は、合成怪異として他の怪異と混ざり合っても消えることなく、驚異的な動力と化していた。
邪心母はまさに、その点に目を付けて狂信坊を喰らい、『究極の合成怪異』の中核としたのだった。
「祝福祝福祝福祝福祝福!! さあ、貴様もありがたく受けるがいい! 神の代行者たる我の祝福を!!」
無数の岩石が空から降ってくる。
爆音と土煙が上がる中、キリカは隙間を突き抜ける風のように疾走した。
『キリちゃん右! 今度は左!』
天眼札によるレンのサポートのおかげもあって、キリカは致命傷を避けながら、敵との距離を詰めていった。
とにかく接近だ。
渾身の斬撃を叩き込むため、キリカは石の巨人の背後へと回った。
どんな巨体だろうと、頑丈な装甲だろうと、共鳴輪によって強化されたいまのキリカに斬れないものはない。
まずは足下。体を支える二本足を断ち斬って、その巨体を転倒させるつもりだった。
「破っ!!」
青白く閃く剣戟。
剣の軌道は確かに巨人の足下を捉えたが……、
(……あっ、まず……)
キリカは直感で危機を感じた。
神木刀が巨人の足に接触した途端、あちこちに垂れ下がった赤い布きれが光を発する。
瞬間、キリカの両足が血飛沫を上げた。
『キリカさん!』
スズナの霊装、浄耀鐘が奏でる音色によって、傷はすぐに塞がる。
キリカは素早く跳躍し、石の巨人『禍矛威』から距離を取った。
『キリちゃん! 大丈夫!?』
「え、ええ……ありがとうスズナ。回復が遅れてたら、いまので終わってたわ」
キリカは冷や汗をかきながら、神木刀を正眼に構える。
合成怪異。三つの異能を持つ怪異。
少なくとも、そのふたつが明らかになった。
「岩石を操る能力……そして、こちらの攻撃を跳ね返す能力!」
「然り! これこそ我が一部『赤い法衣』の能力なり!」
禍矛威は誇らしげにキリカの言葉を肯定する。
「かつては信心深きシスターが暴徒による陵辱によって死に絶え、その怨念によって呪具となったもの! この赤い布きれには触れる者すべてを傷つける呪いがかけられているのだ! 我を滅することは即ち、貴様も道連れにするということだ!」
キリカは歯噛みした。
なんと厄介な能力か。
いったいどうやって倒せばいいのかと逡巡するキリカに、レンの冷静な声がかかる。
『……触れる者すべて……』
「レン?」
『キリちゃん、ひょっとしたらだけど……』
レンが語る予想を聞いて、キリカは笑みを浮かべる。
「試す価値はありそうね。スズナ、もしものときはすぐに回復をお願い」
『は、はい!』
キリカは足下にある砕け散った小石を拾い、禍矛威の胸元に向けて投擲した。
虚しい音を立てて、小石は割れた。
しかし禍矛威に攻撃したにもかかわらず、キリカの体に異変は起きなかった。
「……なるほど。レンの言う通り、攻撃を跳ね返せるのは、本体であるアンタと接触したときだけのようね」
キリカの手を離れた飛び道具に対して『赤い法衣』の効果は発動しなかった。
つまり『赤い法衣』とは、手、または近接武器などで接触が成立した対象のみを迎撃する怪異ということだ。
「……だったら、どうしたというのだ? 貴様の武器は剣のみであろう? 飛び道具のない貴様が、どうやって我を打ち倒すというのだ?」
能力のカラクリを看破されても禍矛威の余裕は崩れない。
ますます挑発的に笑って、キリカを見下ろしている。
「だが、貴様にはひとつだけ秘策があるのではないか? ……そう! 守護霊の力だ! 人の身で神域へと至った霊の最高位! その力があれば、あるいは我の力を無効にしつつ、滅することができるやもしれぬなあ!!」
禍矛威は意気揚々と叫んだ。
それは煽りというよりも、期待に満ちた歓声のようだった。
その様子に、レンは警戒心をいだく。
(確かにこの状況を打破するなら、キリちゃんが守護霊を憑依させるしかない。でも……まるで、それを誘導しているかのように感じるのは、気のせいかな?)
恐らくこの合成怪異は、キリカの対策のために用意されたもの。
こうしてダイキたちと分断され、テリトリーに送り込まれたのがその証拠だ。
事実、近接武器しか持たないキリカにとっての天敵として立ちはだかっている。
だが、それ以上に……守護霊の力を使うのはまずい。
レンの脳内で、そんなアラームが鳴っている。
邪心母が最も警戒するのならば、キリカの守護霊に他ならないからだ。
ならば奴らの本命は、キリカに守護霊を憑依させること。
それによって発動する何かが、あるはずだった。
そして、レンのその予想は正しい。
合成怪異、禍矛威はまさに守護霊に対して特効を持つ存在として産み出された。
触れる者を傷つける『赤い法衣』。
そして、『狂信坊』と『鎮魂の石』……。
これらが組み合わさることで、キリカの勝ち筋は消えることとなる。
岩石を操る能力は『鎮魂の石』によるものだ。
だが、それはあくまで副次的なものに過ぎない。
本来の能力は……神の力の無効化。
かつて神の生贄として葬られた巫女たちの生き血を浴びて、呪いの石と化した『鎮魂の石』。
そこには神に対する強い憎悪が宿っており、あらゆる神の力を消し去る効果を持つ。
神の力が絶対的である『銀色の月のルカ』の世界において、例外的な効力を持つ、とんでもない代物であった。
そして、中核となる『狂信坊』──この怪異にとって、神の力はむしろ供給である。
いかなる神の力も、狂信坊にとっては祝福であり、癒しである。
傷を与えるどころか、力をより強めさせてしまう。
狂信坊が力を蓄え、鎮魂の石が神の力を無効にし、赤い法衣でトドメを刺す。
まさに神に仇なす、三つの脅威。
仮にキリカが守護霊を宿せても、待っているのは敗北である。
(さあ! 宿せ宿せ宿せ! 守護霊を憑依させよ! そして我にその一撃を浴びせておくれ! さすれば叶う! 我の念願が! 神の力の一端を、ようやく目にすることができるのだ!!)
あなたの望みを叶えてあげる、と邪心母は言った。
そしてその言葉通り、願いは成就寸前だ。
(来い! 来い! 来い! 守護霊! 早く! 早く! 早く!)
藍神キリカは必ず守護霊を宿す。
それしか勝ち筋がない以上、その力に頼らざるを得ないのだから。
……そう、邪心母は踏んでいた。
守護霊の力を警戒するあまり、徹底して神に特効を持つ合成怪異を産み出した。
……そこにしか、着目していなかった。
『キリちゃん! 守護霊を降ろすのは待って! 何か嫌な予感がするの!』
「安心しなさいレン。邪心母がどういう魂胆でこいつを仕向けたのか、アタシでも予想はつくわ」
『え?』
「まったく、相変わらず舐められたものね。警戒されているのは凪沙様だけ……やっぱりアタシそのものには眼中になかったようね、邪心母?」
キリカは冷ややかに剣を構える。
守護霊の対策さえ整えていれば、藍神キリカなど脅威ではない。
そう高を括った邪心母の様子が、キリカには容易に想像できた。
結局のところ邪心母は……いまだに藍神キリカそのものを侮っていた。
「飛び道具がない? 凪沙様が編み出した剣技を甘く見ないでちょうだい。アンタみたいな敵に対しても、凪沙様はしっかりと秘術を用意しているのよ」
神木刀が、共鳴輪が、光を発する。
キリカの天性の素質を持つ肉体が、強化されていく。
「禍矛威とか言ったわね? 神の力をご所望のようだけど……お生憎様。アタシの霊力は他の姉妹と違って神の恩恵を受けていないの。アンタの願いが叶うことはないわ」
脇構えの姿勢で、キリカは霊力の出力を上げる。
神の寵愛を受ける姉妹とは異なる、キリカ自らが持つ純粋な霊力が、炎のように燃え上がっていく。
「いままでのアタシにはできなかった……でも、霊力で肉体を強化できるいまなら──使うことができるわ。凪沙様の剣を」
いかなる退魔巫女も実現できなかった凪沙の剣。
それを唯一揮えるキリカの肉体。
即ち……条件さえ整えば、守護霊の存在がなくとも、剣技そのものは使えるということ。
「威力は凪沙様には及ばないでしょう。でも……アンタ程度の怪異なら充分よ」
青白い光がキリカの全身を包む。
稲光を起こすほどの霊力が衝撃波となり、地響きを起こし、空気を震わす。
──剣舞二式・楓の舞
邪心母の敗因は、ただひとつ。
またしても、キリカの才能を見くびったことだ。
──『
神速の一閃が飛翔する。
文字通り……斬撃が飛んだ。
弧を描きながら直進する斬撃は、禍矛威の巨体を瞬く間に両断した。
「バ、カ、なァ……っ!?」
神の力の宿らない、純粋な霊力による斬撃波。
禍矛威は、それによって事切れた。
なんとも呆気ない、末路であった。
(は、話が違うじゃないか! 認めない! こんな結末が認められるか!? 我はまだ神の威光を目にしていない!! なのに、なのに……嫌だ、こんな最期は嫌だああああ!!!)
屈辱と絶望に苛まれながら、合成怪異・禍矛威は消滅した。
神域に到達した守護霊の力すら見ることもなく、少女の卓越した剣技の前に敗れる。
それが数百年に渡って、神に歪な感情を持ち、凶行に走り続けた怪異の末路であった。
禍矛威の消滅を確認して、キリカは剣を降ろした。
「……ありがとう、レン、スズナ。あなたたちのおかげで何とか勝てたわ」
『な、何言ってるのキリちゃん! キリちゃんが凄いから勝てたんだよ! たった一撃で怪異を真っ二つにしちゃうなんて!』
『はい! スズナ、感動しました! あれこそが、キリカさんの本当の力なのですね!』
レンとスズナは驚愕と共にキリカを讃えた。
守護霊の力に頼らず、自らの剣技で勝利を掴み取ったキリカを。
しかしキリカは苦笑しつつ首を振った。
「レンとスズナのサポートが無ければ、真っ先にやられていたわ。そういう意味では……まだまだね、アタシも」
それでも、キリカの胸には誇らしさが宿っていた。
自らの剣技で怪異を滅した。
落ちこぼれと蔑まれ、自虐するばかりだったキリカにとって、それがどれほどの偉業か。
仲間と力を合わせて勝ち取った、まぎれもない成長の証だった。
見ていてほしかった。
一番認めてほしい存在に、今宵の戦いを。
「……これで少しは、あなたに近づけたかしら──レイカ」
月を見上げながら、キリカは切なげに呟いた。
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