百鬼母胎
* * *
ルカは夢を見ていた。
まだ、母が生きていた頃の夢を。
いつものようにクラスメイトにイジめられ、泣きながら帰って、母の膝に顔をこすりつけた。
もちろんダイキが庇ってくれ、慰めてもくれたが、その日は本当に辛いことを言われて、なかなか立ち直れなかった。
泣き続けるルカの頭を、母の璃絵は優しく撫でてくれた。
『どうして、いつも私ばっかり……許せない……アイツらが許せないよお母さん!』
ルカは悲しい以上に、悔しかった。
イジめてくる連中にも、自分と同じ痛みを味わわせてやりたい。
平気で人を傷つけたことを後悔するくらいに、酷い目に遭ってしまえばいい。
降り積もった怒りが、ルカにそんな黒い感情を芽生えさせていた。
だが、そんなルカを璃絵は厳しく諭した。
それだけは、考えてはいけないことだと。
『ルカ、本当に許せないときは、許さなくてもいい。怒りが必要になるときも、人間にはあるから。でも……決して仕返ししてはダメ。憎んで、怨んで、人を傷つけたら、あなたが嫌うその子たちと、同じになってしまうのよ?』
『お母さん……でも、私……』
『怒りの感情は、人を守るときだけに使いなさい。でも決して、憎しみに囚われてはダメ。相手を怨むことしか考えられなくなったら……それはとても悲しいことなのよ? 周りも、そして自分自身も、いつまでも救われない』
人を呪わば穴二つ。
怨嗟を晴らすためだけに生きるようになったら、それはもう地獄に足を踏み入れるのと同じだと、璃絵は言った。
『憎しみは必ず新しい憎しみを生む。どこかで断ち切らないと、その連鎖は止まらないわ……だからルカ。あなたは、そうならないで。逆に……その悲しい連鎖に囚われた人を救えるような子になって?』
母の教えは、いつも難しい。
だが心に深く残り、亡き後も母の数々の言葉が、ルカを導いてきた。
……しかし、いまは進むべき道を見失っている。
大切な少年を、友たちを、怪異の魔の手から守りたい。その思いは変わらない。
だが、そのために自分はどうあればいいのか。どう力を使えばいいのか。
その答えを、いまだに見つけられない。
(お母さん……わからないよ……私は、どうすればいいの?)
母が生きていれば、きっといまの自分に必要な言葉をくれたのに。
……会いたい。
一度だけでいいから、もう一度、母に会いたい。声を聞きたい。あの温もりでもう一度、抱きしめてもらいたい。
「お母、さん……」
途方もない寂しさに胸を満たしながら、ルカは目覚めた。
ちゃぷちゃぷと、体が水に浸かっている。
一瞬、湯船で寝落ちしてしまったのかと思ったが、徐々に目覚めていく意識が、ルカを冷静にさせていく。
(そうだ……私は、常闇の侵徒に捕まって……)
身動きは取れなかった。
妖しく光る紐状のもので、手足が縛れている。
「ここは、いったい……」
ルカは周囲を見回す。
どこかの山の頂上だろうか? 開けた空と、鬱蒼と連なる峰々がどこまでも続いている。
すでに日は沈み、山特有の闇が満ちている。
だが、ルカのいる場所に限っては、毒々しい桃色の輝きで照らされていた。
儀式に使われるような、石造りの祭壇。
その祭壇の中央、まるでプールのように切り取られた窪みの中に、ルカは囚われていた。
窪みには桃色に光る液体で満たされており、跪いているルカの腰元までに水位がある。
ルカを縛る光る紐は、その祭壇の床から伸びていた。
ルカは拘束を解こうと、真っ先に言霊を使おうとしたが……。
(霊力が、出せないっ!)
いつもなら呼吸同然に行える霊力の操作ができなかった。
霊装も起動できない。
……どうやら、浸かっている桃色の液体が力を封じているらしいと、ルカは理解した。
(霊力の込もった水……違う、この水そのものが、怪異だ!)
液体が意思を持って波打っているのを、ルカは感じ取った。
こうしているいまも、身動きする獲物を逃がすまいと水圧が強まり、紐の拘束がよりキツくなっていく。
(霊力封じと、拘束用の怪異……こんな都合のいい怪異を使役できるとしたら……)
頭に思い浮かんだ人物……その張本人が、ルカの前に姿を現した。
「あら、お目覚めのようね、お姫様」
「──邪心母!」
「お久しぶり。また会えて嬉しいわ」
かくして、一度死闘を交えた仇敵と、ルカは対面した。
怪異の長、【常闇の女王】を信奉する常闇の侵徒のひとり、邪心母。
気弱な教育実習生を演じていた頃の面影はもはや微塵もなく、こちらを品定めするような眼差しを向けて、不適な笑みを浮かべている。
「さすが影浸ね。約束通り傷ひとつ付けずに連れてきてくれたんだから。気分はどうかしら白鐘さん?」
「最悪だよ……二度とその顔、見たくなかったのに」
「あら、悲しい。いっときは楽しい学園生活を過ごした仲じゃないの」
「黙って。私をいったい、どうするつもりなの?」
「あら、何となく察しはついているんじゃないかしら?」
ルカは固唾を呑む。
最悪の事態を想像して、体が自然と震える。
「……私を、喰らう気なの?」
「そうよ。あなたと私は、これからひとつになるの」
言うなり、邪心母は衣服を脱ぎだした。
妖艶な肢体が妖しい光に照らされながら、露わになる。
その下腹部には、合成怪異を産み出すための円盤が埋め込まれ、毒々しい輝きを放っていた。
豊満な肉房を揺らしながら、邪心母は桃色の液体に入ってくる。
「さあ、あなたもよ」
「なっ」
桃色の液体がまるでスライムのように浮き上がると、ルカの夏制服に絡みついた。
すると、制服と下着だけが酸を浴びたように溶けていくではないか。
瞬く間に生まれたままの姿になり、ルカは羞恥で真っ赤になった。
「あらあら、若いくせに本当にエッチな体ね。服越しでも凄いと思っていたけれど、脱ぐとさらに過激ね」
手足が縛られている以上、大事なところを隠すこともできず、遠慮もなしに見られてしまう。
たとえ同性相手であっても、ジロジロ見られて気分のいいものではない。
「周りの男の子はたまらないでしょうね。こんなに体が発育した可愛い女の子が傍にいたら」
サディスティックな笑みを浮かべながら、邪心母はルカと素肌を重ねる。
水風船のようにたっぷり柔肉が詰まった膨らみ同士が密着し、淫猥に形を変える。
「ふふ、スベスベの肌ね。羨ましいわ」
「や、やめて……触らないで……」
邪心母は手を蛇のようにうねらせながら、ルカの凹凸の激しい体をなぞっていく。
ゾクゾクした嫌悪感と同時に、妙な刺激で総身が震え、ルカは己を恥じた。
「あら、この反応……まさか処女? へえ~、こんな刺激的な体をしていたら、男にいつ襲われても不思議じゃないと思ってたけど……そっか、いつもナイト様に助けてもらってるのね? ふふ、彼のために大事に取っておいているのかしら?」
「そんなの……あなたに、関係ないでしょっ」
下世話な話で盛り上がる邪心母に体を好き勝手にされ、ルカは激しい屈辱を覚えた。
「でも、安心したわ。生娘の肉のほうが素材としては純度が高いもの。夜は長いわ。じっくりと楽しみましょう?」
「っ!?」
桃色の液体が光を強める。
途端、下腹部を中心に熱が体中に広がっていく。
「あ、ああっ」
なやましい声がルカの口から漏れる。
どろりとした蜜を注ぎ込まれたかのように、脳が悦楽に蕩けていく。
「あぁ……いいわ……混ざり合っていく……」
邪心母も艶やかな吐息をこぼし、ルカとより肌を重ねていく。
「人間を喰らうときは、やっぱりこの方法に限るわね。感じるかしら? 液体を通じて、私たちの霊力が溶け合っていくのを」
邪心母の言うとおり、ルカは感じ取っていた。
自分の霊力が、まるでコーヒーにミルクを混ぜたときのように、希釈され、やがて混ざり合っていくのを。
「これから、じっくり、時間をかけて、あなたを取り込んであげる……安心して? やがて快楽しか感じられなくなっていくから」
「なんで……こんな……どうして、私を……」
よりによって、なぜ自分を捕らえ、こうして取り込もうとするのか。
あまりに理不尽な事態に、ルカは歯噛みすることしかできなかった。
「それはもちろん、あなたが膨大な霊力の持ち主だからよ」
ルカの疑問に、邪心母は淡々と答えた。
「知らなかったわ。ただでさえ潤沢にある霊力が、まさか禁呪によってさらに封じられていただなんてね。餌として、これほど上質なモノはないもの」
「くっ……」
禁呪の解放によって取り戻した霊力の総量……本来ならば、事態を好転させるはずだった力が、こんな恐ろしい遠因を招くとは想像できず、ルカはさらに悔しい気持ちになった。
「そして何より、あなたが……『百鬼夜行』の器だからよ」
「え?」
思わぬ言葉に、ルカは動揺する。
『百鬼夜行』? いったい、なんの話だ。
「どういう、こと?」
「あら、呆れた。あなた、もしかして自分の身に何が宿っているのかも知らなかったの?」
自分の身に宿ったもの……まさか。
「紅糸繰のこと?」
「そう。正確には、その霊装の中に宿っているもの……いいえ、姿形を変えているもののことよ」
「っ!?」
ルカの心臓が早鐘を打つ。
いま自分は、何か恐ろしい真実を明かされそうになっている。
不安と恐怖が最高潮に達し、息が荒くなる。
「教えてあげるわ。あなたの中にいる存在の正体を……この山は、そして祭壇は、その存在たちにとってゆかりのある場所……だからこそ、ここを儀式の場として選んだのよ」
毒々しい輝きの中で、邪心母が邪悪に嗤う。
「ようこそ。私の──『百鬼母胎』へ。今宵は『歴史の闇に消えた種族』が復活する、記念すべき夜となるわ」
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