アイシャとの出会い③


 悪魔と対峙する上での鉄則。


 ひとつ。悪魔の言葉に耳を傾けてはならない。

 読心術を持つヤツらは、心を揺さぶり、こちらの動揺を誘う言動をしてくるが、それらはすべて無意味な煽りである。


 ひとつ。悪魔と交渉してはならない。

 悪魔は一見、理性的な振る舞いを見せるが、その思考は人類が想像する以上に悪逆非道である。たとえ人質を取られて交渉を持ちかけられても、従ってはならない。悪魔が約束を守ることは決してない。


 ひとつ。悪魔の器を破壊することを躊躇ってはならない。

 悪魔は物体、または人間を器とすることでこの世に顕現している。可能な限り、器を破壊することなく救出することが望ましいが……



   * * *



 アイシャが気配を追って辿り着いた場所は、街外れにある廃墟だった。

 不良の溜まり場なのだろう。見るからに柄の悪そうな若者たちが集まり、バイクや酒の空き瓶があちこちに散乱している。

 アイシャほどの美少女がそんな場所に顔を出せば、たちまち彼らの品のない視線を浴びせられ、奥に置かれた小汚いベッドに連れ込まれ、いかがわしいことが行われかねなかっただろうが……若者たちは一様に白目を剥いて、ぼんやりと立ち尽くしていた。

 意識を奪われ、操られていることがひと目でわかった。


 ──廃墟の中央に居座る『讒謗ざんぼうの悪魔』によって。

 コウモリのごとき翼。黒い皮膚。金色の瞳が、アイシャを睨めつける。


「待っていたよ、シスターアイシャ。君の噂はかねがね聞いている。若くして第一席へと昇り詰めた、高潔なエクソシストとね。会えて光栄だよ」

「キヒヒヒ。何だぁ? そのダラしない体はよぉ? エクソシストよりも娼婦していたほうがお似合いじゃねえか~?」

「可哀相だわ……生き方を間違えたんだわ……とても可哀相だわ……」


 その悪魔は、あった。

 ひとつの頭部にまるでお面を三つ貼りつけたように、それぞれがバラバラの言葉を話している。

 ひとつは紳士的に、ひとつは粗暴に嘲り、ひとつは悲しげに泣きながら。

 これが『讒謗ざんぼうの悪魔』……数々のエクソシストを屠ってきた、おぞましき悪魔の姿がそこにはあった。


「主よ、我に聖なる力を。──顕現せよ! 『聖十字』!」


 アイシャは即座に己の霊装を展開した。

 首に提げたロザリオが光を発し、刻まれた術式が発動する。

 アイシャの手元にひとつの物体が形成されていく。

 翡翠色の巨大な十字架だった。

 長さの異なる四本の西洋剣を組み合わせたかのような造形は、一見すると盾のようでもあり、東洋の手裏剣のようでもあり、精巧な美術品のようでもあった。

 中心部にある取っ手を握りしめ、身の丈よりも巨大な十字架をアイシャは構える。


「おやおや。見た目と違って血の気の多いお嬢さんだ。もう戦闘態勢に入るとは。もう少し我らとの対話を満喫されても良いと思わないかい?」

「キヒヒヒ。それによぉ? こっちにはこの通り人質がいるんだぜぇ? こんなところでおっぱじめたら、コイツらを巻き込むことになるぜぇ?」

「可哀相だわ……あなたのせいで彼らは死ぬんだわ……とても可哀相だわ……」


 アイシャは聞く耳を持たなかった。

 悪魔と言葉を交わす時間など、一秒だって必要ない。

 それに操った人間を盾にするなど、悪魔の常套手段である。そのための対策など、アイシャはとうに経験則で弁えている。


「《聖障壁展開》」


 アイシャの言葉と同時に、若者たちの周囲にクリスタルのようなものが発生する。

 翡翠色に輝く結晶体は、若者たちの体を包み込み、あたかも檻のように閉じ込めた。


「皆様。事が済むまでそこでジッとしていてくださいまし」


 そう言うなり、アイシャは霊装の中心部にあるギミックを機動させ、銃のグリップに似たパーツが出現させる。

 アイシャはもう片方の手でグリップを握りしめると、十字の先端をライフルのように向ける。


「《聖光装填》」


 十字の先端に球状のエネルギー体が発生する。

 一点に収束していく光は、音を立てて密度を増していき、膨大なエネルギー量を孕んでいくのが見て取れた。


「《聖砲射出》!」


 十字の先端から光の砲撃が放たれる。

 凄まじい衝撃波は、周囲にいる人間すら巻き込みかねない勢いだったが……アイシャが展開した『聖障壁』によって、若者たちの身は守られた。

 動きを封じる檻であり、守りの壁ともなる霊術。これがあれば遠慮無く戦うことができる。


 光の砲撃によって廃墟の壁に穴が貫かれていた。

 しかし、射線上にいたはずの『讒謗ざんぼうの悪魔』は健在だった。

 翼を広げ、アイシャを見下ろしている。

 すばしっこい。渾身の砲撃を悪魔は紙一重で回避した。


「ほう。あれだけの数の障壁を生成しながら、同時に高火力の霊術を放つとは……噂に違わぬ実力だ! 素直に賞賛しよう!」

「キヒヒヒ。容赦なしかよぉ? あんなの喰らったら、器であるこの体の持ち主が死ぬぜぇ?」

「可哀相だわ……あなたのせいでこの体の持ち主は死ぬんだわ……とても可哀相だわ……」


 戯れ言だ。

 悪魔に憑依された人間は数百倍も身体能力が向上する。並みの攻撃程度では傷ひとつ付かない。

 憑依された人間の体から悪魔を祓い、救い出すには寧ろあれほどの火力でなければ意味を為さない。


 ……だが、アイシャにはわかっていた。

 ──器にされた人間は、もう手遅れであることを。


(……悪魔に憑かれた時間が長すぎましたわ……もう人間としての気配は残っていない)


 悪魔と対峙する上での鉄則をアイシャは思い出し、下唇を噛む。

 これまでは、幸運にも憑依された人間の命を救うことができた。

 ……だが、とうとう自分にも苦渋の決断をすべきときがきたのだ。

 アイシャは覚悟を決める。

 憑依された器ごと悪魔を滅ぼすことを。


「どうかお許しください……せめてわたくしの手で、安らかに眠らせてさしあげますわ」


 このまま悪魔に利用され続けることほど残酷なことはない。ならばいっそのこと自分で引導を渡そう。

 アイシャは再び砲撃を放つべく霊装を構える。

 そんなアイシャを『讒謗ざんぼうの悪魔』は手で制した。


「まあ、待てシスターアイシャ。我々が君を呼んだのには理由がある。他のエクソシストならば、さっさとくびり殺すところだが……君は特別だ。なにせ、ある意味で我々と君は近しい存在なのだからな。君がこの街に来たとき、我々は感じ取ったよ。──君の中に流れる『血』の気配をね」


 ニマリ、と悪魔が三日月のような笑みを浮かべる。


「どうかねシスターアイシャ。──?」

「キヒヒヒ。いまこうして対面したことで確信したぜぇ? おめぇとは同種の匂いがするってなぁ~」

「可哀相だわ……自分の正体も知らないで、ずっとエクソシストの真似事をしていたのね……とても可哀相だわ……」


 何やら意味ありげな言葉を並べているが、アイシャは無視した。

 悪魔の言葉に耳を傾けてはならない。ヤツらの言葉はすべて虚偽なのだから。

 どうせ命惜しさで、デタラメを言っているだけだ。


「……ほう。どうやら己の出生の秘密も知らぬと見える。憐れなことだ。その素晴らしい素質を十全に活かさぬとはな」

「キヒヒヒ。宝の持ち腐れもここに極まるってやつだなぁ~。ある意味で、すべての悪魔の悲願を成就させた数少ない種族の血を引いているっていうのによぉ~」

「可哀相だわ……自分が何者かであることも知らずにずっと教会に利用され続けて……とても可哀相だわ……」


 アイシャは孤児である。

 教会の前で捨てられていたところをシスターたちに保護され、そうしていままでエクソシストとして生きてきた。

 その人生に悔いはなかったし、己の生まれを嘆いたこともない。

 エクソシストは自分が望んで選んだ道だ。それを……目の前の悪魔は侮辱した。

 否応なしに、アイシャの胸に怒りが宿った。


(これ以上、戯れ言に付き合っている暇はありませんわね。いつものように、さっさと片を付けてやりますわ)


 エクソシストとして。そして何よりも『聖女』の名を冠する者として。

 憎らしき悪魔に、聖なる鉄槌を降し……。


「「「 怒 り を 向 け た な ? 」」」


「カハッ!?」


 とつじょ、アイシャの体に突き刺さるものがあった。

 ……己の霊装である『聖十字』であった。

 悪魔に向けていたはずの十字の切っ先が、どうしたことかアイシャに矛先を変えていた。

 まるで、霊装そのものが意思を持つように動き、アイシャの体に重い一撃を加えた。


「我らに、『怒り』をいだいたな? 我らの、言葉に反応して」

「キヒヒヒ。聞き流してるかと思ったが、ちゃんと効いていたようだな? こっちの挑発がよぉ」

「可哀相だわ……まんまと術中に嵌まってしまって……とても可哀相だわ……」


 悪魔が嗤う。あっさりと罠に嵌まった獲物を、さぞ愉快げに眺めながら。

 この一瞬で、何が起きたのか。

 落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、アイシャは冷静に分析した。


(これは……わたくしの『怒り』を跳ね返した!?)


 アイシャは理解した。

 なぜ誰も『讒謗ざんぼうの悪魔』の討伐を果たせなかったのか、その理由を。

 最悪だ。この悪魔は……まさにエクソシストにとっての天敵だ。


「エクソシストも所詮は人。いかに常人よりも泰然自若を心がけていようと、感情を完全に抑制することはできまい?」

「キヒヒヒ。一線を越えた発言を聞いちまえば、どんなヤツもブチ切れるってワケだ。特にお前らが忌み嫌う『悪魔の言葉』ともなればなぁ?」

「可哀相だわ……結局あなたも他のエクソシストと同じ末路を辿るのよ……とても可哀相だわ……」

「あ……あぁ……」


 エクソシストは悪魔祓いを専門とする霊能力者である。

 とうぜん悪魔に対する慈悲など持ち合わせていない。

 彼らに向けるは、制裁の意思のみ。

 どこにいようか? など。

 誰が想像できようか? まさか、それがあだとなるなど。


 廃墟の床に、複雑な模様が描かれた陣が展開される。

 悪魔が敷いた術式が発動したのだ。

 術式……否、それはもはや一種の『異界化』であった。

 アイシャは引きずり込まれたのだ。『讒謗ざんぼうの悪魔』が支配する空間に。


「「「 こ こ で は 我 々 が 絶 対 だ 」」」


 アイシャの霊装が消滅する。

 若者たちを閉じ込めていた結晶体も砕け散っていく。

 アイシャは感じた。

 己の霊力が封じられたことを。

 瞬く間に、アイシャはただの無力な少女となった。


(そんな……わたくしが……こんな、こんな失態を犯すなんて!)


 これまでも、多くの悪魔が特殊な能力を持っていた。

 だが、その悉くをアイシャは力でねじ伏せてきた。

 圧倒的な力の前では、どんな小細工も無意味だった。

 今回もそうして、うまくいくはずだったのだ。

 それなのに……。


 悪魔の言葉に反応し、『怒り』をいだいた相手を、己の有利な領域に引きずり込む悪魔。

 さらに相手の霊力すら自由に封じ、無力化する。

 強力すぎる。

 一瞬でも『怒り』をいだけば最後。それだけで詰みとなるだなんて!


「「「 倒 れ 伏 せ 」」」


「ああっ!」


 アイシャは強制的に地面に叩きつけられた。

 悪魔が放つ言葉の力の前では、もはやアイシャは言いなりも同然だった。


「殺しはしないぞ、シスターアイシャ。先の言葉は、決して虚言ではない。君が何者であるか、我々が思い知らせてやろう」

「キヒヒヒ。これは慈悲だぜぇ? シスターなんて立場、さっさと捨てちまって、本当の自分に目覚めるんだなぁ」

「喜ばしいわ……やっと本当の幸福を手にいれるのだから……とても喜ばしいわ……」


 悪魔によって操られた若者たちがゾロゾロとアイシャのもとに集まってくる。

 意識を失っていても、その双眸は肉欲に濡れている。

 アイシャという極上のメスを前にして、ケダモノのごとく涎を垂らしている。


 アイシャは直感した。

 エクソシストとしてではなく、女の本能で。

 自分は、いまから辱められるのだと。


「い、いや……」


 アイシャは幼子のように泣き出した。

 そんな自分を恥じる余裕も、もはや彼女にはなかった。


 無数の欲望の手がアイシャに伸びる。

 衣服を掴み、いまにも破られようとしたその瞬間……。


「どりゃああああああ!!」


 雄叫びと同時に放たれた拳と蹴りによって、若者たちは吹っ飛んでいった。


「──あ」

「大丈夫か?」

「あ、貴方様は……」


 聞き覚えるの声と姿に、アイシャは胸をときめかせた。

 黒野大輝であった。


(操られている人間たちを一瞬で……それも霊力も無しに!)


 アイシャは驚愕した。

 ものの一瞬で拳と蹴りだけで若者たちを退けてしまった彼の武力に。

 なんと洗練された技だろう。

 刹那の間、目に焼き付いたダイキの動きは、美しささえ感じた。

 構えを取るダイキの後ろ姿を、アイシャは我を忘れて見入っていた。


「心配いらない。君には指一本触れさせない」

「っ!? ひきゅっ……」


 凜々しい声で断言され、アイシャは思わず変な声が出た。

 なぜだろう? やはり彼を前にすると、体が熱くなり、心臓が早鐘を打つ。


「それに、ルカも来てくれた。もう大丈夫だ」

「え?」


 悪魔が敷いた陣に、紅色の糸がいくつも突き刺さる。


【 《紅糸繰》 よ 《結界》 を 《破壊》 せよ 】


 少女の不思議な声が廃墟に反響する。

 紅色の糸が言葉に応じて光を強め、悪魔の陣を同じ色に染め上げていく。

 すると、床に刻まれた陣は、まるでガラスが割れるように砕け散った。


「あ……」


 アイシャの体が自由となる。

 己の中に封じられた霊力が戻ってくるのを確かに感じた。


「「「な!? バカな!?」」」


 いとも簡単に己の結界が破壊され、『讒謗ざんぼうの悪魔』は驚愕に打ち震える。

 それはアイシャも同じであった。


(悪魔の結界陣を、一瞬で……これを、彼女が)


 振り返った先に、彼女は立っていた。

 月光を背に、銀色の髪をなびかせ、紅色の瞳を向ける少女が。


「──さあ、悪夢を終わらせましょう」


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