キリカとの出会い④



   * * *



「……うっ」


 呻き声を上げながら、ダイキは意識を起こした。

 自分が冷たい床に倒れ伏していることに気づく。


(確か俺は……廃病院の中に引きずり込まれて……)


 激しい目眩を覚えながらも、何とか起き上がる。


(いったい、あの後どうなったんだ?)


 一緒に引きずり込まれた配信者の女性は無事なのだろうか?

 呼びかけようにも、声がうまく出せなかった。

 いまだにぼやける視界。

 ダイキは空中に手を伸ばして、手探りで周囲を確認しようとする。

 すると……。


 むにゅ。

 瑞々しく張りのある豊満な感触を鷲掴んだ。


「え?」

「……んっ。いったい、何が……え?」


 視界が徐々に明瞭になっていく。

 ダイキの傍には、ちょうど気絶から目覚めたキリカがいた。

 ダイキの手は、キリカのスポーツウェアの上から主張する豊満な乳房を握りしめていた。

 カァっとキリカの顔面が真っ赤に染まり、


「いやあああああああ!!」

「ぐべらぁ!」


 見事な蹴りがダイキに炸裂した。



   * * *



「最低最低最低! 女の子の寝込みを襲うなんて! 痴漢! 変態!」

「すみませんすみませんすみません」


 涙目のキリカは両腕で乳房を庇うように隠しながら、かれこれ数分ほど土下座をして謝罪を繰り返すダイキの頭をゲシゲシと踏んづけていた。


「ふぅ、ふぅ……いいわ、アクシデントってことにしといてあげる。でも次はないわよ! 黒野大輝! 今後はあんたは要注意人物のひとりとして警戒していくからね! あと、アタシからは二メートルくらい距離を置きなさい!」

「お、仰せのままに……」


 ようやくキリカが落ち着いたところで、二人は現状を把握すべく周囲を確認する。

 不気味なほどの静けさに満ちた、寂れた空間だった。

 目が暗闇になれてくると、無数にある部屋の扉や放置された医療機器が見えた。


「……やっぱり、廃病院の中に入っちまったのか俺たち」

「……そのようね」


 キリカがリュックから懐中電灯を取り出し、明かりを点ける。


「白鐘さんと配信者の女の人も引きずり込まれたはずだけど……白鐘さん! 近くにいるなら返事して!」


 呼びかけに応える声はなかった。


「……黒野君。白鐘さんに連絡できる?」

「お、おう……いや、ダメだ。回線が切れてる……」

「そう……どうやらアタシたちは彼女たちと分断されてしまったみたいね」

「いったい、どうして? 引きずり込まれたタイミングはバラバラだったのに……」

「……引きずり込まれる瞬間、白鐘さんが言霊で何かを発していたのを聞いた気がするわ。たぶん、彼女のおかげで助かったみたいね。あのままだったら、こことは別の場所に連れて行かれていたのかもしれないわ」


 キリカの言葉に、ダイキはゾクリと肌が粟立った。


「とにかく、アタシは白鐘さんたちを探すわ。黒野君、あなたはすぐに脱出しなさい」

「……脱出ってどこから?」

「窓から出るなりしなさい。安心して。こんなこともあろうかとロープを持ってきたから、ここが最上階でも脱出することは……」

「いや……その窓も、どこにあるんだ?」

「え?」


 ダイキの発言で、キリカは懐中電灯をあちこちにかざした。

 ……無かった。外に出られそうな窓が、ひとつも無かった。

 いくつかの病室の中に入ってみたが、どの部屋にも窓は無かった。

 ……よく見ると、壁のあちこちが不自然に歪曲し、出口という出口を塞いでいる。


「これは──『異界化』!? なんてこと……ここまで建物が変異を起こしているのに、『機関』はずっと放置していたの? どうかしているわ!」


 キリカは冷や汗を掻きながら『機関』の杜撰な対応に苛立つ。


(『異界化』……確か、原作でも言及されてたな)


 転生者であるダイキはうろ覚えな記憶から原作知識を捻り出す。

 原作『銀色の月のルカ』によれば、『異界化』とはその建物自体がひとつの独立した世界……一種の固有空間になる怪現象のことを指す。

 外界の物理法則を無視して、あらゆる変異を起こし、あたかも生き物のように成長していく……そう記憶していた。


「よほど強力な地縛霊がいるか、大量の情念が無ければ滅多に発生しないのに……まずいわね。黒野君、予定変更よ。アタシから離れないで。ここはもう別世界よ。何が起きるか、わかったものじゃないわ」


 ダイキと距離を詰め、キリカは周囲を警戒する。

 ダイキも固唾を呑んで、意識を研ぎ澄ます。


(何が起きるかわからない……確かに、さっき俺を引きずり込んだ黒い腕……あれは原作にはなかった展開だ。ひょっとして、俺の行動のせいか?)


 ダイキが配信者の女性の侵入を止めたがために、廃病院そのものが人間を引きずり込むというイレギュラーが発生した。

 ダイキのちょっとした行動ですでに原作と異なる展開になってしまっている。

 ……実際、こうしてキリカと行動を共にするのも、本来はルカでなくてはならないはずなのだ。


(まずいぞ。このままじゃ、俺の持ってる原作知識が役立つかわからない。取り返しのつかないことになる前に、何とかしないと……)


 魔窟に閉じ込められたことへの恐怖。

 そして原作の展開が崩壊することへの焦りで、ダイキは顔を青白くさせる。


「白鐘さんを探して合流しましょう。『機関』からの支援もいつ来るかわからないし」

「あ、ああ」


 そうだ。いまは一刻も早くルカと合流し、無事を確認しなければならない。

 たとえこの先、どれだけ原作とは異なる展開が起きたとしても、ハッキリしていることはひとつ。


 ……この廃病院の怪異は、キリカがいなければ倒せない。

 ゆえにルカをひとりにするのは危険だ。歴戦錬磨の霊能力者であるルカですら危機に陥る化け物……それがこの廃病院の怪なのだ。


「それにしても、凄い瘴気……白鐘さんの霊力を追跡したいのに、感じ取れないわ」


 瘴気……どうやら霊能力者にしか感じ取れない淀んだ空気が充満しているようだった。

 ダイキにわからないが、しかし心なしか息苦しさを感じた。


「手当たり次第に探していくしかないわね。行くわよ黒野君……って、ちょっと!? いくら傍から離れるなって言ったからって手を繋いでこないでよ!?」

「え? いや、俺そんなことしてないぞ?」

「じゃあ誰よ! この手、は……」


 キリカは己の発言で血の気が引いていく。

 ダイキも恐る恐るキリカの手の先を見つめる。


 女の子がいた。

 小さな女の子が、キリカの手を嬉しそうに握っていた。


「……新しいお友達?」


 女の子は無邪気な声色で尋ねてきた。


「あなたたちは、どんな姿にされるのかなァ?」


 満面の笑みを浮かべる女の子の顔が……縦に裂けた。

 まるで果実の皮を剥くように、パックリと赤々しい肉が露出する。

 かち割れた顔面の中に、いくつもの口があった。

 目の位置に。鼻の位置に。頬の位置に。顎の位置に。

 その口すべてが白い歯を剥き出しにして、パクパクと蠢いている。


「わたしはね、口をいっぱい付けられたの!」

「いろんな場所からお話できるの!」

「ひとりで大合唱ができるのよ!」

「あなたたちも同じになる?」


 キャハハハハと口から一斉に笑い声が起こった。

 絶叫を上げながらダイキとキリカは走った。


「何よ!? 何なのよアレ!?」

「悪霊に決まってるだろおおお!?」

「そんなのわかってるわよ! でもアレは……アレはじゃない! どんなことをすれば、あんな化け物が生まれるのよ! この病院はいったい……」

「うわっ!」

「黒野君!?」

「だ、大丈夫だ。ちょっと転んだだけ、すぐに立ち上が……」


 立ち上がれなかった。

 ダイキの足首に、何かが巻き付いていた。

 紐のようなもの……否、それは触手だった。


「ウ、ウゥ……ウゥゥウウゥ……」


 廊下の曲がり角から、何か大きな影が現れる。

 肉塊だった。人間を何人も縫い合わせてひとつにしたような肉塊が、呻き声を上げながらズルリと姿を見せる。


「ツナゲナイデ……モウ、ツナゲナイデ……」

「ワタシハ、ワタシ?」

「アノ腕、ボクノ?」

「ヤメテ……勝手ニ、動カナイデ……」

「消エチャウ。コレ以上ハ、自分ガ、自分ジャナクナル」

「モドシテ……モドシテ……」

「憎イ……一個ノ体ヲ持ッタ、オ前ガ、羨マシイ……」


 無数の顔と目が、ダイキを睨む。

 肉塊から無数の腕が生えてきて、ダイキに伸びる。


 ──バラバラに、してやる……。


「ひっ、ひぃ……!」


 声にならない悲鳴がダイキから上がる。

 死を覚悟をしたその瞬間、


「──神木刀よ。我が霊力を増幅させ給え!」


 青白い光が一閃される。

 足に巻き付いていたものが切断され、ダイキは自由を取り戻す。


「ハァ!」


 立て続けに衝撃波が起こる。

 肉塊に切り傷が生じ、おぞましい悲鳴が上がったかと思うと、うっすらと消滅していく。


「……良かった。腕は鈍ってないようね」

「あ、藍神さん」


 ダイキの前に、木刀を握ったキリカが立つ。

 木刀の刀身は淡い光で覆われ、ジジジと稲妻が走ったかのような音が鳴っていた。


「立って! 早く逃げるわよ!」

「あ、ああ!」


 キリカに手を引かれ、再び走り出す。


(藍神キリカ……何だよ、全然戦えるじゃないか!)


 ダイキはキリカの戦闘力を直に見て、その凄まじい剣技に驚いていた。

 作中で散々『最弱』だの『無能』だと言われていた彼女だが、とてもそうは思えない。

 むしろ身体能力なら、ダイキの師である紫波家の面々にも引けを取らないのではないかとすら感じた。


「……気配は遠ざかったわ。とりあえず大丈夫そうね」


 ひとまず危機から逃げきったことで、二人は走り止まり、ひと息吐いた。


「藍神さん! すげえじゃねえかあんた! あんな化け物を一撃で倒せるなんて!」

「ハァ? 倒せてないわよ! 負傷させて追い払っただけよ! 除霊できてない時点で霊能力者としては半人前よ!」

「そうなのか? でも、助かったぜ。藍神さんがいなければどうなっていたか……」

「……お礼はここを無事に出られてから言いなさい。正直、守り切れる自信はないから」

「でも、その木刀があれば何とかなるんじゃないのか? 藍神さんの霊装だろ、ソレ」

「霊装について知ってるのね。残念だけど、この『神木刀』はあくまで訓練用の霊装よ。一時的に霊力を増幅させる効果しか持っていないわ。白鐘さんの霊装みたいな特殊機能は持ってないから、期待しないことね」


 キリカの言葉で、ダイキはぼやけていた記憶を再び取り戻す。


(霊力を増幅させる『神木刀』……確か藍神家の娘が修行の際に使う霊装だったっけ)


 訓練用である以上、確かに実戦向きの霊装ではない。

 ……だが霊力に乏しいキリカにとって、力を増幅させるその神木刀こそが実戦向きの霊装なのだった。

 霊力を帯びた神木刀は、真剣とほぼ同等の切れ味を誇っていた。

 除霊はできなったようだが、退けることができただけでも充分に胸を張っていいと、ダイキは思った。

 事実こうして、ひとつの命が救われているのだから。


「……藍神さんが一緒にいてくれて良かった」

「ハ、ハァ!?」

「俺ひとりだけだったら、とっくにいまので死んでた。心強いよ」

「や、やめてよ! そんなこと言われても……アタシなんか、低級の悪霊と戦うので精一杯なんだから! アタシなんかより姉さんたちや妹たちのほうがずっと優秀だし、白鐘さんと比べたら天地の差が……」

「俺はその低級の悪霊とすら戦えないぜ? それに他の霊能力者がどうとか関係ないよ。いま俺をこうして助けてくれたのは藍神さんなんだから。君は命の恩人だ。本当にありがとう」

「な、ななな……!」


 慣れない賛辞を貰ったせいか、キリカはリンゴのように紅潮して慌てふためいた。


「……本当に変な人ね、あなた。『アタシが希望』とかどうとか、ワケのわからないこと言うし」

「あ……」


 そういえば、そんなことも口走ったなとダイキは頭を掻いた。

 今回のキーパーソンにしてフィニッシャーであるキリカが原作通り部室に現れたことで、心底安堵し、つい衝動的に感謝してしまったのである。


「……ねえ、あなたもしかして未来でも見えるの? この先、どうなるかわかってるとか……」

「……そんな力はないよ。ただ──神様にちょっとだけ知識を貰っただけだよ。『藍神キリカは、たくさんの人を救う希望の象徴だ』って」


 嘘は言っていない。

 前世の知識は、ある意味で神によるギフトのようなものだからだ。

 藍神キリカは、このホラー漫画の世界で希望の象徴となる。

 ダイキはそれを知っている。


「……ぷっ。何よ、ソレ?」


 ダイキの突拍子もない発言に、キリカは思わず吹き出した。

 冗談だと受け取ったらしい。

 本当のことを話してもきっと信じてもらえないだろうし、何より『君たちは物語の登場人物だ』と言われて良い気分にはならないだろう。

 なのでダイキは、それ以上は口を閉ざした。


「……どこの神様か知らないけれど、随分と意地の悪い神様ね。こんな落ちこぼれのアタシが希望だなんて……そんなの、なれるわけないのに。生まれた家の神様にすら見放されている、このアタシが……」


 乾いた笑みを浮かべて、キリカは顔を俯かせた。


「……ねえ? あなたは、どうして裏の世界に関わるの?」

「え?」

「教室での様子を見るに、あなた相当なビビリでしょ? そんなに怖がりなのに、どうしてわざわざ自分から顔を突っ込むのよ?」


 キリカの目は真剣だった。

 生半可な解答は許されないものを感じた。

 ダイキはしばし言葉を選んでから、口を開いた。


「……怖いさ。本当なら怪異とは無関係な場所で平和に暮らしたいさ」

「だったら、どうして……」

「逃げ場はない、ってわかったからさ。どんなに逃げても、この世界に怪異がいる限り安息の場所はない。だったら……真っ向から立ち向かってやるって決めたんだ。ルカと一緒に」

「え?」


 ダイキの答えを聞いて、キリカは目を呆然と見開く。


「怖いけど、すごくイヤだけど……でも大切な人たちが怪異の犠牲になることのほうが、一番怖いから。ルカはいつだって死に近い場所にいる。ルカのことは信頼してるけど……でも絶対はない。いつか怪異の犠牲になるかもしれない。霊力のない俺じゃ、力になれることは滅多にないけど……それでも支えていこうって決めたんだ。俺にできる範囲で、精一杯に。そして何より……許せないんだよ。理不尽に人の命を弄ぶ怪異が」

「──ぁ」


 言葉を成さない吐息がキリカからこぼれた。

 霊力を持たず、人一倍臆病でありながら、数々の修羅場を乗り越えてきた少年から語られる言葉の重み。それを、キリカは感じ取った。


「……そう。そうよね。怪異が、許せないわよね……ええ、本当にあなたの言うとおりだわ……」


 キリカはいまにも泣きそうな声色で身を抱きしめた。


「あなたも黄瀬さんの言うように、自分の心に正直になっているのね」


 キリカは眩しいものを見るように、複雑な感情のこもった眼差しをダイキに向けた。


「……無駄話に付き合わせてごめんなさい。こんなことしてる場合じゃなかったわね。生きましょう。あなたの大切な人を探しに」


 キリカとダイキは、再びルカの捜索に向かった。



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