異形の食事


 焦ってはいけない。

 ソレは自らに言い聞かせる。


 まだだ。まだ、我慢するのだ。

 せっかく見つけた、極上の獲物ではないか。

 たっぷりと熟成させないと、あまりにも勿体ない。

 鮮度だ。とにかく鮮度が大事だ。

 肉が最もおいしくなる瞬間。ソレの舌はよく知っている。

 もちろん、その調理法も。


「や、やめて、くれぇ……金なら、いくらでも払う……だから、ひ、ひぃぃ……」


 子羊のように怯えた獲物が、助けを請うてくる。

 情けなく涙を流しながら、震える手で札束を見せてくる。

 ふっと、息を吹きかけると、札束は虚しく宙を舞った。

 こんな紙切れに、まったくの興味も湧かない。

 ソレの興味の対象は常にひとつだけ。

 青ざめた顔で腰を抜かしている、目の前の獲物だ。


 ソレは舌舐めずりをする。

 目の前の男の恐怖に染まった表情……そそる。たまらない。

 その目で見つめられるだけで、体が疼いてくる。


 ソレは鼻を鳴らし、獲物の匂いを嗅ぐ。

 ……恐怖が臨界点に達した生き物の匂い。

 ……死に怯え、生に固執する動物が発する特有の匂い。

 芳しい匂いを前に、思わずゾクリとする。

 何度嗅いでも、たまらない。

 これだ。これこそ最も素材の味が引き立つ瞬間。


 頃合いだ。

 目の前の獲物は充分に、できあがった。

 ソレは男の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。


「や、やめてくれ……お願いだ……やめ……むぐっ」


 尚も救いを求める唇が、ソレの唇によって塞がれる。

 瞬く間に舌が差し込まれる。

 淫靡な音が、人気のない路地裏で響き渡る。


「ぐっ……こふっ……うごぉ!?」


 男の体に異変が起こる。

 ビクン、ビクンと、陸に上げられた鮮魚のように体が跳ね上がる。


「おごっ……うぶぉ……っ」


 奇怪な呻き声が重なった唇の隙間から漏れ出る。

 それは快感によがる声というよりも、苦痛から逃れようとする類いものだった。

 事実、男は苦しんでいた。


「ごごご……うごぉぉぉ……」


 急速に男の頬が痩せこけていく。

 腕や腰、足に至るまで、肉という肉が萎んでいき、腕時計やベルトなどの重みのある金具が次々と地面に落ちていく。

 飢饉によって数日食事を取れなかった人間のように、元の顔の輪郭もわからなくなるほどに、男の体がやつれていく。

 ……否、それはもう『やつれる』という言葉では済まされないものだった。


「おぼぼぼ……おうぅぉおおお……」


 もはや人間が上げるものとは思えない呻き声を出しながら、男は白目を剥く。

 限界まで見開かれた白い眼球。それがまるで沼に沈む込むように、内側へ、内側へと引っ込んでいく。


 じゅぞぞぞぞ……。


 不気味な吸引音が響く。

 その吸引音に合わせて、男の体は空気の抜けた風船のように、皮だけを残してペラペラになっていく。


「んぐ……んぐ……」


 男と唇を重ねたまま、ソレは喉を鳴らす。

 至高の美酒を味わうように。

 恍惚と酔いしれた表情で、さもおいしそうに、吸い出したものを飲み干していく。


 根こそぎ吸い取ったところで、唇を離す。

 肉も骨も無くなり、皮だけになったものが、ハラリと地面に残される。


 ソレは満足そうに唇を舐める。

 ソレの唇は口紅を塗ったように真っ赤に染まっている。

 ……鮮やかな血と肉の色だ。


 ソレは余韻に浸りながら、先ほど味わったものの品評を始める。

 悪くなかった。

 普段から健康に気を遣っていたのだろう。

 偏食せず、肉だけでなく、ちゃんと野菜や果実を摂取していたようだ。

 タバコはやっていないし、酒も嗜む程度といったところか。

 若々しく、健全な雄特有の味わい深さがあった。

 久しぶりに、雄で『当たり』と出会った。

 でも……物足りない。まだ、この程度の味では。


 やはりこの舌を満足させるのは……街中で見つけた、あの獲物しかいない。

 初めて見つけた珍味。

 美食家として、アレを逃すわけにはいかない。


 路地裏でソレはクツクツと嗤う。


 余興は済ませた。

 そろそろ本格的な『調理』をすべく、向かうとしよう。


 楽しみだ。いったい、どんな味がするのだろう。

 ソレは涎を垂らしながら、想像する。

 この先、きっともう二度とお目にはかかれないであろう貴重な珍味に思いを馳せて、尽きることのない食欲を滾らせる。


 ああ、早く見たい。死の間際に見せる表情を。


 ああ、早く嗅ぎたい。生を求めて抗う肉の芳しい香りを。


 ああ、早く……食べたい、食べたい、食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい!


 その内に邪悪な欲望を宿しながら、ソレはまた街中に溶け込む。

 何事もなかったかのように、ソレにとっての獲物が無数に存在する世界で……たったひとつの珍味を味わうべく、活動を再開する。




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