天の御使い

『なんて……なんて温かいの……優しくて……とても心地良い……そうか、これが……スズナちゃん、これはあなたのお母さんの……』


 髪による拘束が解ける。

 意識と肉体の力を奪う香りもしない。

 怪異による異常が、嘘のように霧散していく。


 ……俺は、幻を見ているのか?

 怪異になったはずの清香さんが……清香さんの魂の穢れが、消えた?


「あれって……?」

「……信じられない」

「ルカ?」

「浄化、した? 一度怪異になった魂を、浄化したというの? 霊力が無いはずのスズナが……スズナ、あなたいったい、何者なの?」


 ルカが驚きの声を上げている。

 俺も、とても信じられない。

 だが事実、怪異の気配は消えた。

 ……清めたというのか?

 魂と魂の触れ合い。それによって、清香さんの憎しみを消し去ったというのか!?


 ルカは言っていた。

 スズナちゃんの魂は透き通っていて、とても綺麗だと。

 霊にとって、とても心地の良い器だと。

 それが、関係しているのか?


「あ……」


 ふと、以前アイシャが語っていたことを思い出す。

 そうだ。彼女も言っていたではないか。

 スズナちゃんの特異体質のことを。


『……スズナさんは不思議な御方ですわね。これまでの怪異関連の事件を撮影し続けていることもそうですが……彼女、もしかしたら怪異の『毒』に強い耐性を持っておられるかもしれませんわ』


 怪異の『毒』……どんな強靱な精神力の持ち主でも、怪異を前にすると毒を浴びたように精神に異常をきたし、最終的に発狂する。

 霊力を持つ霊能力者たちや、俺のように数珠などの加護を持っていればある程度は防げるが、それでも限界はある。

 ……だが思えば、スズナちゃんが怪異を前にして恐怖に震えたことがあっただろうか?

 いや、もちろん危機感や恐怖感は覚えてはいるだろう。

 だが、そういう人間ならば極当たり前に持っている原始的なもののことではなく……そう、怪異の『毒』で発狂しかけたことは一度もなかったのではないか?

 もちろん、霊力の持たないレンやスズナちゃんは俺と同じ数珠を持ち、定期的に怪異を遠ざけるまじないがかけられている。

 だが何度も言うように、どれだけ対策しても、防備には限界があるのだ。

 あまりにも長い時間、怪異を直視すると例外なく発狂する。

 ……それでも、毎度まいど怪異との戦闘を後方から撮影しているスズナちゃんが、怪異の『毒』に汚染された様子はちっとも見受けられなかった。

 ……それは、アイシャの言うように『毒』に耐性を持つ特異体質だからなのか?


『……わたくし、初めてスズナさんとお会いしたとき、驚きましたもの。「なんて清く綺麗な魂の持ち主なんでしょう」って。教会の人間といえども、魂の姿までは偽れません。聖職者でありながら、歪な形を持った魂はいやというほど見てきましたわ。……でも、スズナさんは、時代が時代ならば……「聖人」と称されるような器の持ち主です。彼女の祈りによって昇華された魂は、きっと未練なく、清々しい気持ちで浄化されることでしょう。……もしかしたら「聖女」という称号は、わたくしよりも彼女にこそ相応しいかもしれませんわね? ……いえ、あれはもう寧ろ「天の御使い」と言うべきでしょうか?』


 原理はわからない。

 だがこうして事実……清香さんは、スズナちゃんによって救われた。

 魂が、清められたんだ。


『……ごめんなさい、スズナちゃん。私、取り憑いたのがあなたじゃなかったら、きっと今頃……皆にも、ごめんなさい。私、危うく取り返しのつかないことをしてしまうところだった』


 清香さんの霊体が、ゆっくりとスズナちゃんの体から抜けていく。


「清香さん!」

『ダイキくん……ごめんね? 私に優しくしてくれたのに、ひどいことして……あなたの気持ち、本当に嬉しかった。忘れないよ? 向こうに行っても、あなたのこと……ありがとう、ダイキくん』


 清香さんの霊体が、天に向かっていく……。

 成仏する気なんだ。このまま。魂が清いうちに。


『生姜焼き、「おいしい」って言ってくれて、ありがとね? 料理の中で、一番上手に作れるやつだったから、嬉しかったな……』

「清香さん……」

『最後に出会えたのが、あなたたちで良かった……』


 涙の雫が夜空に散っていく。

 それに合わせるように、彼女の輪郭も粒子になって上へ上へと昇っていく。


「……清香さん。忘れません! 俺も、忘れない! この世界に大谷清香っていう素敵なアイドルがいたこと! あなたと過ごした時間を! 絶対に……絶対に忘れない!」

「私もです、清香さん。あとのことは、任せてください。だからどうか……安らかに……」


 スズナちゃんと共に別れの言葉を贈る。

 消えていく彼女の最後の表情は……笑顔だった。


『ありがとう。本当に、ありがとう……さようなら』


 月に向かうように、光の粒子が昇っていく。

 大谷清香の姿は、もう見えなくなった。


 ──……気をつけて? この街には……ううん。この世界には、何か、恐ろしいものがいる……。


 最後に、そんな言葉が夜空に響いた。


 ……そうだ。

 これで、終わったわけではない。

 清香さんを殺した何者かが、この世に存在する。

 清香さんの言葉を信じるなら、その下手人は最初から清香さんを怪異にするために殺害した。

 いったい、何の目的で?

 謎は尽きないが……必ず見つけ出し、仇は取る!


「……『怪異の長』?」

「え?」


 隣でスズナちゃんが奇妙なことを呟く。


「……清香さんに、伝えられました。この世界には、何か、途轍もなく恐ろしい存在がいると……その存在こそが、すべての元凶だと」

「元凶、だと?」


 そういえば……怪異になりかける瞬間、清香さんは何かを異様に恐れていた。

 何かが自分に囁いてくる。「こっちにおいで」と自分に語りかけてくると……。


「ダイキさん……もしかしたら、私たちは、とんでもなく大きな存在を相手にしているのかもしれません」


 スズナちゃんは鬼気迫った顔で言う。


「とても、嫌な予感がします……を聞いてから、震えが止まらないんです」

「っ!?」


 言葉どおり、スズナちゃんは震えている。

 怪異の『毒』に耐性を持っているかもしれない彼女が、恐怖に怯えている。


「……なんだ? ソイツの、名は……」


 息を呑みつつ、尋ねる。

 スズナちゃんは、その名を言葉にすること自体を躊躇うように、ゆっくりと口を開く。


「清香さんを襲った下手人……共有した記憶が曖昧で、私もはっきりと顔を見たワケではないのですが……ただ、こう口にしていたことを覚えています。……『すべては、我ら主君の復活のため』だと」

「復活?」

「はい……『すべての怪異の頂点に君臨する者』。その名は……」


 震える唇から、その名が、明かされる。


「──【常闇の女王】」


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