スズナの祈り

「あ、あ……」


 相手の意識を狂わせる甘い芳香。

 失念していた。

 そうだ、これは清香さんの霊としての能力。

 あの夜にも、さんざん浴びた彼女特有の異能だ。

 しかも怪異と化したことで、より強力となった芳香は意識だけでなく肉体の力まで奪っている。


 これが、怪異としての大谷清香の力。

 強すぎる。

 これでは、何も抵抗できない。


「あっ、ぐっ!?」

「大丈夫。怖くないから」


 触手と化した髪が俺の体に巻き付く。

 体が!

 まずい、このままでは……。

 一か八かだ! ここでお札を発動するしか!


「……あ、べっ……れっ……おっ……?」


 ……喋れない。

 口の筋肉が弱まって、呂律も回らず、ろくに言葉も発せない。

 ダメだ。お札は俺の言霊を鍵として発動する。

 これでは、お札が使えない。


「大人しくしてね? 痛いようにはしないから」

「あっ、かっ、はっ……」


 赤く光る両目が、俺を愛しげに見つめる。


「安心して。すぐに終わるよ? 眠るように、気持ちよく……あなたの命を奪ってあげる」

「……かふ……こふ……」


 吸われる。

 生命力が吸われていく。

 恐ろしい。

 自分の命が徐々に削られていっているのに……それに心地よさを覚えてしまっている。

 その快感を求めてしまっている自分がいる。

 なんて、恐ろしい。


「あっ……ああっ……やめて……お願いやめて清香さん! ダイくんを連れていかないで!」

「ダイキっ! ……いや……いやああああ!」


 レンとルカの悲鳴が届く。

 ……ごめん、二人とも。

 見栄張っておきながら、こんなザマで……。


「さあ、ダイキくん。一緒に行きましょう? 私と永遠の世界へ……ダメです、清香さん。それだけは、いけません……え?」

「……っ!?」


 同じ口から、同じ声で、意思の異なる言葉が紡がれる。

 彼女自身、己の発言に戸惑っている。

 これは……まさか!?


「ど、どうして? あなたの意識は、完全に眠っていたはず……いいえ。眠っていません。ずっと、ずっと起きていました。ただ、表に出ていなかっただけ。それがあなたのためになると思ったからです。未練なく、あなたの魂が救われるのならと……でも」


 赤く光っていたはずの両目。

 その片目だけ、色が変わっている。

 それは……スズナちゃんの金色の瞳だった!


「どうか、やめてください。ダイキさんは、私の大切な人なんです」

「スズナ、ちゃん……?」


 間違いない。

 この口調は、雰囲気は、スズナちゃんだ!


「清香さん。これ以上は、いけません。こんなことをしたら、あなたの魂は一生救われない。来世に生まれ変わることもできなくなってしまう。だから、どうか」


 彼女の口の形が崩れる。

 悔しさを顕わに、唇を噛みしめる。


「やめて……そんな言葉聞きたくない!」


 赤く光る片目から涙がこぼれる。


「わかってる! こんなこと、間違ってるってわかってる! でも……だったら私は、何を救いにすればいいの!? 私の人生、いったい何だったのよ!? わかるわけない……生きているあなたたちに、私の気持ちがわかるわけない!」


 奇妙な光景だった。

 ひとつの体に、ふたつの意識が混ざり合って、お互いに主張し合っている。


「なにひとつ……なにひとつ、いいことなんてなかった! 報われたことなんて一度だってなかった! こんな……こんなことのために、私は生まれたんじゃない!」


 少女の体に、透き通った人影が重なっている。

 見間違えるはずがない。

 あれは写真集で何度も見た、大谷清香、本人の姿だ。


 泣いている。

 彼女の霊体は、嗚咽するほどに泣いている。


『未練なんて、たくさんあるに決まってるじゃない! 幸せになりたかった……ただ、それだけだったのに……どうして、どうして世界はこんなにも理不尽なの!?』


 泣き叫ぶ声は、もはや彼女の霊体から発せられていた。

 それは世を呪う悪霊の叫びというよりも……あまりにも無慈悲な現実に対する嘆きの声だった。


『……わかるわけない! アンタたちなんかに、私の気持ちがわかるわけない!』

「……いいえ。わかります」

『……え?』


 霊体であるはずの清香さんを、抱きしめる腕があった。

 それは、スズナちゃんの霊体だった。

 これは……二人の魂が触れ合っているのか?

 いま二人は、同じ肉体を共有している。

 それによって起きている奇跡だというのか?


「清香さん。私この三日間、あなたの魂にずっと寄り添っていたんですよ? だから、わかります。あなたが、どれだけ頑張っていたか」

『あ、ああ……』

「……ずっと、努力されていたんですね? 自分を変えるために、必死に。……なんて、なんてお強い御方」


 スズナちゃんに取り憑いた清香さんは、スズナちゃんの記憶から俺のことを知り「惚れた」と言っていた。

 ……ならば、スズナちゃんも同じように、清香さんの記憶を見たのではないか?

 きっとスズナちゃんは知ったのだ。大谷清香の生涯を。

 つまり、いまのスズナちゃんは……この世で数少ない大谷清香の理解者ということになる。


「お辛かったですよね? でもあなたは乗り越えた。自分を変えるために、戦った。それが、どれだけ凄いことか」

『私、は……私、ずっと変わりたかった。デブってバカにされ続けて……だから、見返したかったんだ。有名になって、自分をバカにしてきた世の中を驚かせてやるんだって。こんな私でも、何か栄光を掴めるんだってことを、証明したかった』


 幻影を見る。

 こことは異なる光景が、意識の中に入ってくる。

 これは……清香さんの記憶?

 彼女に捕らわれているためか。俺も、彼女の意識を共有しているのか?


 見えるのは、薄暗い部屋に引きこもっている小太りの女性。

 あれは……まさか、清香さん?

 女性は雑誌に映るモデルの美人たちを、羨ましげに見ている。

 姿見に映る自分の姿と見比べ、彼女は何か決意に満ちた顔を浮かべた。


 景色が切り替わる。

 今度は必死にダイエットをしている女性の姿。

 ランニングやゲームセンターのダンスゲームで、必死に脂肪を落としている。

 段々と痩せていく女性。やがて見覚えのある姿へとなっていく。

 まるで別人のようになった彼女が、スカウトを受けている。


 ……そうか。これが、清香さんが歩んできた道なのか。


『アイドルになって、私の世界は変わった。私の写真で、トークで、歌とダンスで、皆に喜んでもらえることが嬉しかった……本当に好きだったの、あの仕事が。生まれ変わったような気持ちだった。もっと、もっと、続けたかった。もっと人気になって、それで……お母さんに、恩返し、したかったのにっ』


 涙が頬を伝う。

 大谷清香の本当の未練を、目の当たりにする。


『お母さん……お母さんっ! ごめん……ごめんなさい。私、私っ、ずっと謝りたかったのに。迷惑かけたくなくて、帰れなかった……本当は、いますぐにでも、会いたかったのに! お母ぁさん……ごめん……ごめんねぇ!」


 きっと、誤魔化していたんだ。自分の本当の気持ちを。

 受け入れてしまったら、あまりにも辛くて、耐えられないから。


 喧嘩別れしてしまった母に謝りたい。


 それが清香さんの本当の未練だったんだ。


 声を上げて泣く清香さんを、スズナちゃんの魂が、優しく抱きしめる。


「優しい御方……お母様を、本当に大事に思っているんですね? 私も、母を愛しています。強く、賢く、優しい母は、私の誇りです」

『スズナ、ちゃん……あっ……ああ、見える。あなたのお母さんとの記憶……本当だわ。なんて、綺麗で、かっこいい人……スズナちゃん。あなたは、こんなに小さい頃に、お母さんと……』


 景色が再び切り替わる。

 今度は、どこかの立派なお屋敷の一室。

 ベッドの上で、痩せこけながらも美しさを損なわない女性が、小さい少女を優しく撫でている。

 女性と少女は同じシャイニーブロンド色の髪。

 これは……スズナちゃんの記憶?


『スズナ。何も悲しむことはありませんよ? あなたの思い出の中に、私は生き続けるのですから』

『おかあさまぁ……』


 スズナちゃんのお母さん……確か、スズナちゃんが幼い頃に病気で亡くなったと聞いた。

 これは、お母さんとの最後の思い出なのだろうか。


『スズナ、母の言葉をよく聞きなさい。きっとこの先、あなたは多くの試練とぶつかるでしょう。でも、そんなときこそ、自分としっかり向き合いなさい。心の声に耳を澄ませなさい。誰かに言われたことじゃない。自分が正しいと信じた道を進みなさい。あなたが「あなた自身」でいられるように生きなさい』

『はい……はいっ、おかあさま』

『スズナ。あなたは優しくて、心の強い子。あなたが信じて進む道なら、多くの人を救い、幸せにすると私は信じています。……ああ、スズナ。私の誇り。私の天使。愛しているわ』


 なんて温かくて、優しい記憶。

 この思い出が、きっと今日までのスズナちゃんの支えとなり、力となっていたんだ。


「寂しくはありません。母とは、いずれ会えると私は信じていますから。……だから、清香さん。あなたもどうかお母様を向こうで待っていてあげてください。もう一度、会えるように。再会したとき心置きなく思いを伝えてあげられるように……だからお願いです。憎しみに囚われないで。バケモノなんかにならないで。あなたの魂を、救わせてください。あなたが来世で今度こそ幸せになれるように、祈らせてください」

『あ、ああっ……』


 濃密に漂っていた闇の気配が、薄れていく。

 異形になりかけていた少女の輪郭が、徐々に元の姿に戻っていく。


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