自分だけの宝物を大切にしたところで、なんになるのだろう
夏乃さんと高良と別れたその夜。窓を開けて、初夏の夜空を見上げる。澄んだ東の空には、出始めた夏の大三角が煌めいていて、物思いにふけるにはいい夜だ。
『だから、自分の好き、そんな無意味なものを何度も重ね、伝え合う行為に、私は疑問を抱かずにはいられないのだ』
今日尋ねられた言葉が、今もなお頭の中に響いている。
好きを重ねてきたけど、それに意味があるのかな。
考えたけれど、何も思い浮かばない。どころか、マイナスになっていると感じる。
今日、高良に好きと言われて、切なさを抱いたのは、そのせい。私と高良の好きはちがう。私は重ねてきた分、好きが重い。想いの大きさに埋めがたい差がある。
だったらやっぱり、あの日、高良と見た河川敷の光景は違っていて、私が特別綺麗に見えただけ。
ああ、胸が窮屈になってきた。重ねた好きを捨てれば、この苦しさから開放されるのかな。
そう思うと、過去の思い出が蘇ってくる。
***********************
よし。今日は昨日より可愛く描けた。
小学校のお昼休み時間、ノートに描きあげた絵を眺めていると、突然それを取り上げられた。
「ははははは! 変な絵! みんな見ろよ!」
クラスの男の子がへらへら笑って、ノートを掲げた。
「やめて! 返して!」
そう言ったのに、男の子はただ笑うばかりで、返してくれない。
「教室の隅で一人絵ばっかかいてんのに、これだったら俺の方がうまいわ!」
「葵ちゃんって、何もできないよね。くすくす」
男の子の周りにみんな集まってきて、晒し者にされる。
恥ずかしくて、悔しくて、悲しくて。
「ひぐっ」
唇を痛いくらいに噛んだのに、嗚咽がもれる。目が熱くなって、涙がこぼれ、私は机に顔を伏せた。
***
私の部屋で、絵を描いていると、お母さんが入ってきた。
「また絵なんか描いているの?」
「ママ。私、少しずつ、上手になってるんだよ。見て、この絵」
私は引き出しを開いて、昨日描いた絵を取り出した。ママは、それを一瞥すると、私に諭すように語りかけた。
「あのね、美鶴。この程度の絵なんて誰でも描けるの。上手くなろうとしているのなら、無駄だからやめなさい」
「で、でも」
「でもじゃない。絵を描くことは悪いことじゃないわ。だけど、他を疎かにして絵を描いてばかりいるのは、悪いことなの」
「うぅ」
「美鶴は、何もできないんだから、絵なんかやめて、せめて勉強だけはしておきなさい」
「私、絵を書くのが楽しくて……」
「楽しいことだけやってればいいわけじゃないの。これ以上、絵を描くなら、画材全部とりあげるわよ」
「……ごめんなさい」
ママが部屋から出ていくと、私は声を抑えて泣いた。
***
絵を描いていると、学校では揶揄われ、家ではママに怒られる。
どこにも居場所がなくて、辛くて、いつも泣いてしまう。
ひとりぼっちを抜け出すには、私がいていいんだ、と思われるためには、絵をやめないといけない。
それはわかってる。
でも、やめたくないよ。
私が生きている中で、唯一楽しい時間なんだよ。
それがなくなるって想像すると、苦しい、辛いよ。何の楽しみもなく生きることが、ただ苦しい、辛いよ。
だけど、絵はやめないといけない。だけど、やめても苦しいだけ。
もうやだよ、どうしたらいいかわかんないよ。
そうやってまた一人泣く。
そんな夜を何度も過ごした。
***
夏休みのある日。ママに入れられた小さな塾の夏季講習。そこで私は、一人、端っこの席で小さくなっていた。
どうしよう。プリントが終わったけど、丸つけしてもらいにいけない。
男の子、女の子、みんな友達と喋りながら、先生の机の前で並んでいる。あのなかに、一人で入っていく勇気が出ない。
人がすくまで待とう。
そう決めた私は、プリントを裏返す。そして、絵を描こうとしたけど、躊躇った。
絵を描いたらまた怒られるかも。周りに人がいるし、また晒し者にされるかも。
だけど描きたい。この時間、ただ何もせず、退屈で窮屈で過ごしたくない。
小さくなら、許されるかな。
いつもより、小さく控えめに絵を描き始めた。
出来上がって顔をあげる。するとそこには、知らない三人の男の子の顔があった。
「なに描いてんだよ、きもちわり〜」
「アニメのキャラ? めっちゃ下手」
「だっせ〜」
心ない言葉に、泣きそうになって俯く。
また嘲笑われた。絵を否定された。居場所がなくなった。
どこにいても同じ、私が認められることはない。
「何騒いでんだよ」
その時、新しく男の子が加わってきた。
「見ろよ、高梨、この絵」
「は? って、うわっ、すげー上手いじゃん」
パッと顔をあげた。男の子の目は、ラムネ瓶のビー玉みたいに純粋に輝いていて、本気で言っていることがわかった。
「え? 何言ってんだよ、高梨。へただろ、ふつーに」
「いや、俺、こんなに上手に描けねえし」
「まあお前、図画工作壊滅的だしな」
「そう言われると、悔しくなってきた! 見とけ、今から、上手い絵を描いてやるからな!」
そう言って、男の子は私の隣に座る。そして、私が描いた絵の隣に、絵を描き始めた。
「できた!」
その声と共に大きな笑い声が上がる。
「高梨、下手すぎ!」
「なんなんだよ、これ!」
「テレビで画伯がどうのって言ってたけど、おまえそれじゃん!」
「はあ!? じゃあお前らも描いてみろよ!!」
男の子たちが、私のプリントを回して代わる代わる絵を描いていく。そしてみんな、けらけら笑う。
「煽ってきたわりに、お前らも下手じゃねえか」
「お前よりマシだ」
「俺が一番うまい」
「いやいや俺が一番だよ!」
そして、私の絵が上手だと言った、高良、と呼ばれた男の子が私に顔を向ける。
「この子の絵が上手いから、俺たちの絵が下手に見えるだけ、そういうことにしとこうぜ」
ただの冗談なのに、上手だとは、本気で思ってくれていて、泣きそうになる。生まれて初めて、嬉しくて泣きそうになる。
「そうだな。ごめんな、最初からかって」
最初の三人が謝ってくれたけど、私の目はもう、高良という男の子にしかいかなかった。
***
毎日が楽しくなった。
塾に行く足取りが軽くなった。
高良を見つけては、隣の席に座った。
それだけで胸がドキドキした。
丸つけの列に並ぶ時は付き添ってくれた。
わからない問題も教えてくれた。
だからあえてわからないフリもしてしまった。
時間ができて絵を描いたら褒めてくれた。
家で描いた絵も見せるために持ってきてしまった。
そしたらまた褒めてくれた。
会話も楽しかった。
今までひっそりと生きてきた私にとって、高良との会話は新鮮で、面白くて、何度も笑った。
全部ひっくるめて、甘やかしてもらった。
何度も何度も好きを重ねた。
だけど、そんな日々は唐突に終わりを迎える。
8月のある日のこと。塾へ行った私は、いつものように高良を探した。だけど見つけることはできなかった。
早く来すぎたかな?
そう思って待っていたけれど、いつまで経ってもこない。
病気で休みなのかと思った。だけど、そうではないと知った。先生が、高良が塾をやめた、と教えてくれたからだ。
理解はできたけれど、納得はできない。どうして、どうして、と人目を憚らず泣いてしまう。どうしようもなく好きな人ともう会えない、そのことが認められなくて、駄々っ子のように泣きじゃくった。
けれども、ずっと泣き続けても何も変わらない。高良がもう二度と塾に現れることはないのだ。
非情な現実に打ちのめされ、一週間も床に伏せた。だが、考えを変えて、何とか立ち上がることができた。
自分を磨く時間をもらったのだ。
いつか、高良と再び出会った時、褒めてもらうために絵を上手に描けるようになろう。可愛いと言ってもらえるよう、お洒落だって頑張ろう。甘やかされた分、甘やかすために、料理だってなんだって頑張ろう。
そう心を決めて私は変わることにした。
***
「葵さんの絵、めちゃくちゃ上手。かなり練習したんじゃない?」
「うん。好きな人が褒めてくれたから頑張れたんだよ」
絵が褒められるようになって、続ける勇気をくれた高良がより好きになった。
***
「美鶴ちゃんって、料理も運動も何でもできて、すっごく可愛いよね」
「好きな人に振り向いて欲しいから頑張ったんだよ」
友達が一杯できて、周りのみんなから尊敬されるようになって、そのきっかけをくれた高良がより好きになった。
***
「美鶴は自慢の娘だわ」
「もうおおげさだよ。勉強見てくれた人にバカのままだと申し訳ないから頑張っただけ」
親から愛されるようになって、勉強を頑張れるようにしてくれた高良がより好きになった。
***********************
息をついて、再び夜空を見上げる。
会っていても、会っていなくても、重ねてきた好き。
意味がないとしても、捨てらんないよ、こんなの。どれも私の大切な想いなんだから。
だけど、自分だけの宝物を大切にしたところで、なんになるのだろう。
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