第174話 星空の下
ボトルが机に来た時はどうなるかと思ったが、案外あっという間に酒は空になってしまった。
...いや、あっという間というのも変な話か。俺は結局、彼女とまともな会話を交わす事はなかったのだから。
随分と長い時間にも思えたし、一瞬のようでもあった。
酒のせいじゃない。
君が傍に居ると、時間の概念さえも熱に融かされてしまうのだ。
気まずかった訳では無い。ただどうにも気恥ずかしかった。俺だけがそう思っているという事実がそれを助長させた。
何が楽しいのか全く分からないが、サラはニコニコと微笑みながら俺の顔を眺めるばかりだった。本当に困る。
君だって顔を赤らめているくせに、俺ばかり気恥ずかしい思いをしているみたいだ。
「もう空だな」
中身のないウォッカ瓶を軽く振りながら言う。
「そうだね...まだ飲む?」
「流石に遠慮するよ。明日に響きそうだ」
自分もサラも、変な酔い方をしている様子はなかった。
吐き気もない。酩酊感は確かにあれど理性は残っている。
ともかく、もう飲まないなら店を出よう。そう店員に伝えようとした時だった。
「あー...会計」
...やっぱり理性残ってねぇわこれ。
なんで自分が金持ってきてねぇこと忘れるかなぁ。
「あっ、私が払うよ...まぁイヴァンさんから貰ったお金だけど」
そう朗らかに笑う君。本当に自分が情けない。
前回は部下に、今回は女の子に酒に掛った金を払わせていることになってしまう。
次があるかどうかは分からないが、もしあるとするのならばその時こそ挽回せねばならないだろう。
「よし、行こう」
会計を済ませたらしい。そそくさと机から空の瓶を回収しだす店員を背に、彼女はまた俺の方へ向いた。
その赤みがかった顔は、何度見てもやっぱり変な気持ちになる。
「帰るのか?」
分かり切った事を尋ねてしまう。
もう夜の帳は落ち切った。この酒場みたいな一部の建物以外の灯りはもう消えている頃だろう。夜は深まっているのだ。
これからできる事など、もう帰る事くらいだろうに。
「ううん。次で最後だよ」
――そう思っていたが故に、その答えは完全に予想外だった。
こんな時間から行ける所などあるのだろうか?夜は治安が悪い。それに、夜の街にはどうも嫌な記憶があるのだ。
スラム街だったとは言え、聖女や見知らぬ少女が襲われていたのもこの時間帯である。
「危なくないか。こんな時間に」
そう尋ねる俺の手をまた引いて、サラは店の外に足を踏み出す。
やはり外は真っ暗だった。
「うん...だから傍に居てね」
ふふ、と悪戯好きの子供のような小悪魔的な笑い。
やっぱり敵わない。黙ってついていくことしか許されないみたいだ。
「あぁ、離れないさ」
それに、俺の意志と関係なく君が離してくれそうには無かった。
俺の心の奥底が見透かされているのだろうか。表層では、君を穢してしまうだとか、こんな罪人が君と居るべきではないとか喚いても、君と居るとどうにも喜んでしまうこの浅ましい心の奥底が。
なんて考えながら夜の街を歩く。
非日常的だった。明かりという明かりが消えたこの真っ暗な街で、君だけが輝いていた。降り注ぐ月星の光を纏った君の髪は、夕日を反射していた時とは別の魅力があった。
綺麗だ、なんて思うけれど、到底口にできそうになかった。
ただ君の後ろ姿を見つめながら歩く。
しかしその時間は数分もしない内に終わりを迎えた。
「もう直ぐだよ」
やや跳ねている声のままに辺りを見渡してみれば、いつの間にか俺達を囲う建物は無くなっていた。君に夢中で気付かなかったのだ。
「...ここは?」
「東区自然公園、っていう名前なんだって」
なるほど、唐突に周囲の環境が変わったのはそんな理由だったか。東区自然公園。余りにも無味乾燥な響きの名前だが、まぁ人民連邦らしいとも言える。
街の中にある自然にしては少し大きいように見えるが、暗闇に目を凝らして注意深く観察すれば、確かに人の手の入っている痕跡はあった。
そんな公園の中を、変わらず君に手を引かれながら歩く。
夜闇に包まれようとも、君を見失う事なんて絶対にないだろうに。春の太陽のように眩しくも暖かい君の事を見失う事なんて。
なのに、君はずっと俺の手を握っていた。
それは年頃の少年少女というよりも、姉と弟のように見えるだろう。
それは少し嫌だ。なんて心は言う。
その理由に心当たりはあるけれど、どうも言葉にしてはいけない気がした。
「うん、ここにしよう」
サラが立ち止まる。そこは丁度、頭上を覆う木々が途絶えている所だった。目の前に小さな池が広がっているからだ。
風も雲もない、ただただ穏やかな夜があった。
「ほら、ライトも座って?」
地面の上に腰を下ろしたサラが、隣の草をポンポンと叩きながら言った。
あぁ、と言って俺も座る。
すると、芽吹き始めた緑が俺を包み込んだ。柔らかい自然に身を沈めながら、まだ少し先の春に思いを馳せる。
春はまだ先だけれど、その気配を感じる事はできる。肌寒いというよりは涼しいという表現の方が正しいだろう気温だった。
「見てライト、凄い綺麗...っ!」
感嘆の言葉がサラの口から漏れ出す。
その視線を辿って、俺も夜空を仰ぎ見た。
「...あぁ、本当に綺麗だな」
夜空はまるで、深く澄み切った大海のようだった。
只管に綺麗で澄んだそれは、空気の層を越えた先の色を映している。宇宙の存在すらも感じられる雄大な光景だった。
漆黒の空は底知れぬ深さを湛え、その中で微かな光が瞬く。遠い宇宙の彼方から届いた光は、静寂を纏いながら地上に降り注いでいる。
空恐ろしいほどの純真な漆黒。しかし空寒い漆黒ではない。包み込むような、心を溶かすような安心感を齎す黒色をしていた。
そんな黒に散りばめられたのは無数の星々。光の粒が重なり合って結びつく様の美しさは、きっと言葉なんて括りでは表現できないのだろう。
やっぱり、空は好きだ。
色んなことを経験した。波乱に満ち満ちた人生だ。
苦しみが溢れ出た時もあったし、世界に終わりを願った絶望もあった。大切な仲間を失って、献身的に俺を支えてくれたミアすらも俺のせいで死んでしまった。
それでも、多くの人に色んなものを託された。君に救われて、だから救った。
心の底から思う、波乱に満ち満ちた人生だと。
しかし、空は変わらず俺の頭上にある。曇天だろうと青空だろうと、或いは月星が煌めく夜空だろうと。その表情を変えながらも、どんな時だってあったのだ。
見守ってくれているとは思わない。ただ、豊かに変化し続ける空は、不思議な事に不変だった。
色んな空を見てきた。
船の上で、雄大な海と広大な空に挟まれたあの空。
山脈の頂きで目にした朝日。
どうも心を奪われてならない。
魔王になっても、英雄になっても、大罪人になっても、結局俺なんてちっぽけな存在なのだと思わせてくれる。
それは救いなんかにはならない筈なのに、少しだけ心は軽くなる。
俺は空が好きだ。
...それに、
「本当に、綺麗だ」
君が隣に居れば、もっと美しく見えるから。
こういうのは地面に寝転がりながらぼんやりと眺めるものだろう。重々承知している。だってのに、俺の視線は彷徨ってばかり。
君の横顔と夜空を行ったり来たり、馬鹿みたいだ。
「ねぇ、ライト」
サラが視線を空に向けながら言った。
その顔に優しい笑みを浮かべて、まるで何でも無い事を言う様に。
「今日、楽しかった?」
答えに窮すことすらできない。
君と居るだけで心は高揚すると言うのに、今日はずっと君と居たのだ。君と劇を見て、市場を回って、酒を飲んで、今はこうして夜空を眺めている。
嘘のつきようが無かった。
「...あぁ、凄い楽しかったよ」
「ふふ、良かった」
優しい笑み。
穏やかな表情なのに、どうも俺の心をかき乱して止まない。
なんというか、自分が情けない。
余りにも意志が薄弱だ。俺は本来、君の傍に居て良いような人間じゃないと、そう告げたばかりだというのに。あの時だって、それに今だって、そう確信している。
けれどそんな思いは関係なく、心はどうしても踊ってしまう。
自分の心だというのに、まったく自分の言う事を聞いてくれない。
「ねぇ、ライト」
いつの間にかこちらを覗いていたサラ。その瞳は真っ直ぐ俺の目を見ていた。
「君を助ける。君を守る。君を救ってみせる...その言葉に嘘は無いよ」
あぁ、それはそうだろう。
君の言葉を疑った事なんて一度も無い。その真摯さを見て、誰が君を疑えようか...いや違うな。誰が君を疑おうとも、俺だけはずっと君を信じているさ。
唐突な言葉だった。
脈絡なく彼女の口から告げられた言葉だった。しかし、必然と言うか何と言うか、違和感は全くなかった。
「私も楽しかった。君と過ごしたこの一日は、本当に楽しかったの」
胸に手を当てる様は、今日一日のを振り返っているようだった。喜びと幸せに満ちた顔を見れば分かる。心の底から楽しい一日だったのだろう。
「...っ」
胸に痛みが走った。
幸せそうに、少しだけ顔を赤らめながら笑う君を見て。痛覚なんてない筈なのに、心臓が掴まれたように痛んだ。
俄かに顔が赤くなる。
綺麗だった。夜空の下で微笑む君は、これ以上ないくらい美しくて、心を奪われてしまう。
「...あぁ、ちくしょう」
ダメだ。もう自分に嘘をつくのにも限度ってものがある。
馬鹿だった。自分を騙せると、心についた嘘をつき通せると勘違いしていた。
もう無理だ。耐えられない。
薄々勘付いていたこの気持ちの名前が、頭の中で明確に浮かんでしまった。
許されない気持ちだ。想いだ。
俺みたいな穢れた大罪人が、太陽の様に輝かしく純真な君にこんな感情を抱くなんて。本当に、俺って人間は何処までも罪深い。
何度も顔を赤らめた。
何度も心臓が暴れ出した。
可愛い、綺麗だ。どれだけの言葉を尽くしても、君の魅力の全てを言い表す事はできない。この雄大な星空なんかよりもずっと、そう思わせる。
でもやっぱり気恥ずかしくて口にする事はできない。
君と過ごす時間は楽しくて仕方なくて、永遠の様に思えて刹那よりも短くて、もっと長く続けばと願ってしまう。
誰だって分かる、この気持ちの名前なんて。
――恋だ。
君が好きだ。守りたいって気持ちだけじゃないんだ。一緒に居たい。君ともっと過ごしたい。一方的で妄信的な庇護心ではなく、君もこの気持ちを俺に抱いてくれたら、なんて願ってしまう。
俺は君に、どうしようもないくらい恋をしているんだ。
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