173話





 再び俺の手を引く彼女の背を追って数分、俺とサラはとある店を前にしていた。


「俺が気に居る所ってここかよ...」

「ふふ、違った?」


 扉越しに伝わる店内の喧しさ、熱気。そして周囲でフラフラと揺蕩う酔っ払い共。

 ここは酒場だ。


「いやぁ、嫌いって訳じゃないけど」


 というか、好きも嫌いも無い。

 確かに酒は好きだ。アルコールが喉を焼くあの感覚は、思考を解いてただ夢を彷徨うなあの酩酊感は好きだ。


「俺、酒場なんてそう行った事ないぞ」

「...そうなの?」


 そりゃそうだ。俺はまだ...何歳だ?色々あり過ぎて自分の年を忘れたが、少なくとも自分の年を忘れるような年齢では無かった気がする。

 酒場に行った事はある。あれは確か、俺がエルを打ち倒し、サラを救う前日。テオと二人で適当な酒場で飲んだのだ。一文無しだった俺は彼に金の無心をした時でもある。情けない話だ。

 ともかく、俺が酒場に行ったのはその一回きりである。


「だがまぁ、こっちの酒には興味があった」


 天華に頼んで貰ったあの酒は、飲んだことのない類のものだった。火でも呑み込んでいるのかと思う程の高い度数。

 あれは量を違えれば痛い目に合う。実体験だ。


「良かった。じゃあ行こう!」


 そう言った彼女に手を引かれ、俺は酒場に足を踏み入れた。


 間を置かずして熱気と喧騒に包まれる。

 男たちの笑い声、酔っぱらいの聞くに堪えない歌、ぶつかるカップの音が混ざり合っている。しかし不思議と不協和音のような不快感は覚えなかった。酒場とはこうあるべき、みたいな一種のステレオタイプな喧しさである。


「わぁ、凄い活気...」


 酒臭いだろうに、野郎どもの暑苦しさだってあるだろうに、彼女はやはり興味津々に目を輝かせていた。

 すっかり忘れていたが、彼女は一国の王女だった。アベルやあの国王に大切にされてきた彼女の事だ、こんな場末に来た事はなかったのだろう。


「大衆酒場ってヤツだな」


 言いながら、近くの空いている椅子を引く。丁度二人席だった。一人で飲むならカウンターを選んだだろうが、今は少しでも落ち着ける席の方が良いだろう。

 まぁ、こんな騒がしい場所に落ち着きを求めるのは間違っているかもしれないが。


「ありがと!」

「あぁ」


 短く言葉を交わしながら、俺も彼女と同様に席に着いた。


 そして特に意味も無く店内を見渡しながら思う...年頃の男女二人で来るには少し不健全じゃないか?

 そもそも酒場ってチョイスがおかしい気がする。俺もサラもそこらの酔っ払いに負ける事はないだろうが、こんな所だ。ちょっとしたいざこざに巻き込まれる可能性だってあるだろうに。


 まぁ、文句は言うまい。彼女が考えてくれたプランなのだから。

 それに実際、お堅いバーなんかよりこっちの方が肩肘張らずに済む分楽だ。


「...うーん、注文の仕方が分からん」


 周りの酒飲み達は皆一様に同じものを飲んでいるように見える。

 無色透明、小さなコップを何度も傾けてを繰り返す様は何処か見覚えのある。


 多分ウォッカだ。この街に来るまでに何度も飲んだヤツ。


「注文は?」


 何時の間にか、傍には店員らしき男が立っていた。ウェイターの服なんてある訳ないので気付かなかったのだ。


「まぁ、取り合えずウォッカ一つ」

「ショットか?」

「ボトルで良い」


 吞みなれているとは言わずとも、既に知っている味。だが嫌いではない。あの喉を焼く感覚は中々癖になりそうだ。直ぐに酔いが回るのも良い所だ。

 しかし、悩みどころが一つ。


「サラは?」


 彼女は口を結んで、何やら考え込んでいる様子だった。

 思えば彼女が酒を飲んでいる姿は見た事がない。ここは一つ水でも頼むべきだろうか。

 そう感がえる俺を他所に、何か決意したらしいサラが、


「私にも同じのくださいっ!」

「あいよ」


 決心の割にそっけなさ過ぎる反応を残して店員が去ってゆく。

 サラはその後ろ姿を何処かソワソワしながら見ていた。


「...良いのか?」

「うんっ...せっかくだからね!」


 と、言っている割には気弱そうに見える。

 彼女にとっては初めての酒なのだろう。もしかしたらそれで緊張しているのかもしれない。

 その初々しさすらも可愛いらしい。


 というか、サラはボトルの意味が分かっているのだろうか。もしかしてワインのグラス分くらいだと勘違いしてないか?

 ...まぁ良いか。


「無理だけはするなよ」


 彼女が決めたことに口を挟むことはすまい。

 彼女の気分が悪くなってしまうような酔い方ならば止めるだろうが、何だか応援したい気分である。

 彼女は確か、俺より一個上だっただろうか?ならば酒の飲めない年齢という事はないだろう。


「ウォッカ二つだ。つまみは?」

「あー...まぁ大丈夫だ」

「あいよ」


 相変わらず素っ気ない店員である。大衆酒場らしいと言えばそれまでだが。

 ともかく、酒が運ばれてきたのだ。

 やっぱりな何て思いながら目を向ける。


「...えっと、もしかして」

「あぁ、ショットグラス二つって言えば良かったな」


 ボトルが二つ。机の上に鎮座していた。

 デカい訳では無いのが救いだろうか。それにしたって二本は明らかに多すぎるが。


「...ごめんなさい。ライトに任せればよかった」


 そう言って俯くサラ。珍しく落ち込んでいた。


「気にすんなって、別に大した量じゃねえよ」


 言いながら、俺は机に置かれたショットグラスにウォッカを注ぎ入れる。俺のにはなみなみに、彼女のには半分くらい。

 ショットというのは一気に仰ぐものだが、急にアルコールを摂取するのは危険だろう。ましてや彼女にとっては最初の酒だ。ぶっちゃけ火酒は強過ぎる。


「...ありがと」

「うし、じゃあ――」


 乾杯の音頭はどうしようか。気取った言葉を吐く気分ではない。

 まぁ考えるのは無しだ。酒の場に必要なのはただ酩酊感とあほらしさである。

 ...しかしここに居るのはサラだけだ。いつもとは違う。仲間とバカ騒ぎしたことしかない自分にとっては、こういう酒の飲み方は未体験だった。


「乾杯」

「か、乾杯」


 結局、捻りだしたのは二文字だけだった。

 まだ酒を口にしていないというのに、君と居るとどうも思考がまともに働かなくて困る。


 そう自分に呆れながら、俺は一気にショットを仰いだ。口いっぱいに広がる強い匂いと熱。嚥下と同時に喉を焼く感覚。


 あぁ、何だか久しぶりな気がする。

 この感覚はつい昨日経験したばかりだろうに。


 理由は明白。

 君と二人っきりで過ごすこの一日は余りにも刺激が強くて、非日常的だった。そこに酒という日常が感覚として戻って来たからだ。


「んッ...」


 妙に艶めかしい声が耳を突く。

 やっぱり度数が強過ぎたのだろう。彼女は口を抑えて顔を赤らめていた。


「ぷはっ...ふぅ...」


 息を荒げながら口元を拭うサラ。何だか健全じゃない。俺には刺激が強過ぎる光景だ。ウォッカよりもずっと俺を酔わせる。

 目を彷徨わせながら、俺は空になったショットに再び酒を注ぎ入れた。


「...これがお酒なんだ」

「いやぁ、ウォッカは度数めっちゃ高いからな...あんま参考にしない方が良い」


 と、言いながらも俺は再びショットを仰ぐ。

 君に対するこの変な気持ちも、或いは罪悪感さえも、全部酒と一緒に呑み込めたらと叶わない願いを抱きながら。


「ゆっくり飲めよ」

「うん...」


 俺の忠告通り、彼女はチビチビとショットを傾けていた。

 しかし、そのたびにこちらをちらりと見ては微笑む様子がなんとも落ち着かない。

 またしても慈愛に満ちた笑みである。ただし、先程と違ってその顔には赤みがある。それが何だか刺激的だった。

 その視線に、耐えられそうになかった。


「...何だよ」

「ふふっ、なんでもないよ」


 なんだよそれ。

 答えになってないじゃないかと思いながら逃げるようにもう一杯飲み干した。


 周囲は相変わらず喧しい。男たちが肩を組んで何かを叫び、粗野な笑い声が響き渡る。だけど俺たちのテーブルだけがぽつりと静かな世界だった。

 酔いのせいか、彼女の笑顔がますます鮮明に見える。


「ライト、楽しい?」


 小声で尋ねてくる彼女に、俺は少し間を置いてから頷いた。


「…悪くない。」

「そっか、それなら良かった」


 彼女は嬉しそうにまた一口飲む。俺も再びグラスを傾けた。

 この喧噪の中で、俺の中の罪悪感は再び静かに息を潜めていた。やっぱり不思議だ。君が傍から離れた直後に心を覆い被さった闇は、君と居るとその存在さえも感じられぬほどに無くなってしまう。


 こんな酒の飲み方は初めてだった。

 バカ騒ぎを眺めるでもなく、ヤケッパチに飲みまくるでもなく、静かに酒を傾けるのは。


 でもやっぱり落ち着かない。

 君はずっと俺の顔を眺めては満足げに微笑むばかりだ。


 会話は弾まない。ただ、何度も視線が絡み合っては俺の方が恥ずかしそうに逸らすだけだ。それをずっと繰り返しているうちに、二本もあったボトルはどんどんと減っていく。


 夜が更けてゆく。

 あっという間に、一日の終わりが近付いてくる。


 君と一緒に過ごす時間はどうしようもなく楽しいけれど、それがどうしようもなく寂しかった。

 自分らしくない。


 今日一日中、ずっと自分が自分じゃないみたいだ。

 けれど、不思議とそれが嫌だとは思わなかった。


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