第172話 何時だって、傍に
ターニングポイントでもないのに一話六千文字は長すぎなのと話数を稼ぎたいので分割と加筆をして投稿しました。
既に読んでいる方には申し訳ございません
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ふと、忙しなく弾んでいたサラの声が途切れる。
間を置かずして、小さくも割としっかり聞こえたのは腹が鳴る音だった。
「…あっ」
サラが一瞬で顔を赤らめ、気まずそうに視線を彷徨わせた。余りにも分かり易い。思わず口元を緩めた。
「メシにするか」
思えば、演劇前からずっと何も口にしていなかった。
ここに来て俺が空腹を感じない弊害である。彼女に気を遣えなかった自分を恥じるばかりだ。
「...うん。でも、ライトは」
サラの声には遠慮が滲んでいる。言いたい事は明白、俺が味覚を持たない事を言っているのだろう。何だか申し訳ないと。
「そんなん構うなって」
それが全てである。俺に構う必要はない。君がやりたい事は全て言ってくれて構わない。俺はその為になんでもしよう。
なんて気取っても、今からするのは只の食事に過ぎないけれど。
「ほら、行くぞ」
そう言って彼女の手を取って、さっき目に留まった露店に向かって歩き出した。
今度は俺がリードする番である。そう意識するとどうも気恥ずかしい。
俺の掌の熱が彼女に伝わっていないか、色々と読み取られてしまいそうで少し怖かった。
振り返れる気がしない。俺は顔を隠すように真っ直ぐ歩く事しかできなかった。
そうして辿り着いた露店。シンプルだがどこか温かみのある雰囲気だった。スパイスの効いた串焼きや、小さなパイが並んでいる。
俺は店主に軽い食べ物を二つ頼み、渡された包みを受け取ると、近くのベンチに向かった。
ベンチに彼女を促し、手渡した包みを見つめる。サラは嬉しそうに受け取り、小さな手で器用に包みを広げた。
「うわぁ、すっごい美味しそう...!」
そう言いながら一口かじる彼女の顔が、幸せそうに緩む。
「...どうだ?」
なんて、分かり切った質問をしてしまう。
自分にとって味なんてどうでも良い。きっと、言葉を交わす事が楽しくて仕方ないのだ。
「すっごく美味しい!」
再び、花が咲いたような笑み。眩しくも可愛らしさに溢れている。
俺も同じように口に運んだ。もちろん味はしない。不味いも美味いもない。無味。そこに味覚的楽しみがある訳がない。
だが、不思議とそれで十分な気がした。
市場の喧噪の中、彼女と並んで座りながらの食事。
味覚が失われた俺にとって、それは無意味な行為でしかない筈なのだが。
「...不思議だな」
何故か、人生で一番楽しい食事な気がした。
無意識に漏れた言葉に、サラがこちらを見る。
「え?」
彼女は首を傾げる。その無邪気な仕草すらも可愛い。
「いや、なんでもない」
苦笑いを浮かべて視線を逸らす。
何故かなんて言ったけれど、理由は単純明快だ。君と食べれば、味が無くても世界一の料理なんだろう。
サラは黙々と、というか食べるのに夢中な様だった。
そんな彼女に時折視線をやりながら、俺もまた黙ってメシを口にする。
...確かに楽しい。人生で一番楽しい食事と言う言葉に嘘は無い。
けれど、味覚があればなと初めて思った。
何かを口にして美味しいと感じて、君と一緒に味の感想を言い合ってみたい。でもそれは叶わない事だ。
そうして、買った食べ物が全部胃袋に収まった頃。
「ちょっとだけ待っててね、少し買って来たい物があるの」
何処かソワソワしながら彼女が言った。俺も行こうか、と言うのは無粋だろう。
「あぁ、待ってるよ」
「ありがとっ」
言うや否や立ち上がって駆けだす。
そんなに急がなくても、俺は何時までも待つさ。
ともかく、しばらくぶりの一人である。
ここ数時間はずっと二人きりだった。もう気が気ではない。しかし、それでいて楽しくて仕方のない時間だった。
少し心を落ち着かせよう。君が居ない今になって、ようやくその命令を心が受け入れた。心臓が暴れる事も無く、顔の熱も引いてゆく。
ただぼんやりと市場を眺める。日常という名の特別に、一種の憧憬を抱きながら。
「お父さん!」
――と、無垢な少女の声が響く。
楽しそうな少女だった。何処かで買ったらしい花をその手に、未知の先で手を広げる父に向って走っていた。
それは、何処かで見た少女と似ていた。
「...あぁ、クソ」
――熱が冷める。冷水よりもずっと冷たくて残酷な光景が脳裏に広がる。
『何でお父さんを殺したの』
何時だっただろうか。多分、あの趣味の悪い拷問の一環だ。俺は街中を引き摺られて、石と罵詈雑言を投げかけられたのだ。
忘れていた。いや、目を背けていただけか。
フラッシュバックってヤツだろうか。
ふとしたことを切っ掛けに過去のトラウマを思い出してしまうのは。
クソ、なんてタイミングだ。
これさえも罰というのか?幸福など一切許さないと?
...あぁ、当たり前だ。俺に幸福なんて許されない。一切の正の感情は赦されない。でも楽しいと感じてしまったんだ、彼女と過ごすこの時間は。
けれど、何時だって傍にある。
目を背けても、逃れようとサラの為に剣を振るおうと。
罪は、何時だって傍にあるんだった。
平和な光景だと思った。日常と言う名の幸福が広がっていると、この光景を見てそう思った。
...俺が壊したあの街にもこんな市場があったのだろう。
だけど、嘗ての俺はこれをぶち壊した。
何万人も殺した俺が、民間人を大虐殺した俺が、平和を見て何を思った。羨ましいと思ったのか?馬鹿馬鹿しい。俺が奪った光景の一つだろうに。
俺が、彼女にこんな気持ちを抱く事は―――
「ライト?」
唐突に思考を犯した闇を切り裂く様に、光の様な声が耳を突く。
何時の間にか戻って来たみたいだ。その手に小箱を抱えていた。それがさっき言っていた買いたい物というヤツだろうか。
彼女は心配そうな表情を浮かべていた。そりゃそうだ、さっきまで馬鹿みたいに顔を赤くしていたヤツがこんなに顔を歪めてんだから。
「大丈夫だよ、ライト」
そう言って俺の手を取る。
包み込む様に俺の手を握ってくる。
...あぁ、クソ。やっぱり俺はどうしようもねぇヤツだ。
こんな事を嬉しいと感じてしまうのは、間違ってる筈なのに。
心配そうに俺の顔を覗き込む君さえも、俺にとっては――
...本当に、俺はどうすれば良いんだろうか。
板挟みだ。これは罰なんかじゃない。
ただ、君と笑い合いたい。けれど過去の罪が許してはくれない。誓いは只、自分の背中に居る君を守る為にある。
だが君は、俺の隣で笑っていた。
罪と向き合わずして、君の隣に立つことはできない。
だが向き合うには大きすぎる罪だ。ならば、やはり俺には君と過ごす資格はないのだろうか。
多分、この問答だってずっとできる訳では無い。こんな不確実で波乱に満ちた人生だ、この先が平穏なんて訳が無いだろう。
故に、俺は答えを出さなければいけない。
選ばなくてはいけない。
この感情に、彼女への想いに、結論を付けなければいけないのだ。
「...ライト?」
黙り込む俺を心配してか、その目に何処か悲しそうな色を浮かべながらサラが言う。変わらず俺の手を握って、ベンチに座る俺の前で膝を着いて。
「なんでも、無いさ」
何でもない訳が無い。
ついさっきまで笑顔を浮かべていたその顔を、今は深刻そうに歪ませているのだ。この言葉が嘘だ何てことは誰だって分かる。
でも、なんて答えれば良いのか分からなかったんだ。
急にトラウマが蘇ったとでも言うか?無理だ。きっと、彼女の顔まで悲しそうに歪めてしまう。それはダメだ。
だから分からなかった。何でもないとはぐらかす事しかできなかった。
「...分かった。君がそう言うなら、私は何も聞かないよ」
僅かばかりの悲しさを浮かべながらも、何処か慈愛に満ちた笑みだった。
彼女は包み込む様に俺の手を握っている。さっきまで彼女の手に感じていたのは思考がショートしそうになるくらいの熱だったけれど、今はただ暖かさだけが伝わって来た。
「でも、私に何かを言うのを躊躇わないで。私は君の隣に居たい。守るべき存在と言ってくれるのは嬉しいけれど、私も君の為に何かしたい」
答えに詰まる。
あぁ、覚えているとも。昨日の様に思い出せる。あの木の下での会話も、妄執に囚われた俺を見てられないと悲しそうに言った君も。
それに対し、俺はなんと答えた?
俺は本来、君の傍に居てい良いような人間じゃない。冷たくそう突き放したではないか。それから数日しか経っていないというのに、俺は今君の傍に居る。
やっぱり叶わない。この外出だって本当は断るつもりだったのに、上目遣いの君を拒絶する事なんてできっこなかった。
だけど、あの時の答えが間違っていたとは思っていない。
「...きっと、私が何を言っても君は変わらない」
諦め、ではない。
俺の自己犠牲を諦めたようには見えない。
「自己嫌悪の底に居たら、過去の光さえも目に届かないから」
多分、彼女なりの心境の変化があったのだろう。今の彼女は一段と大きい存在に見えた。
「だから、大丈夫だよ」
再び、慈愛に満ちた笑み。
見覚えがある笑みだ。世界が悪に満ち溢れていても、彼女さえいればきっと、人の善性は証明されるだとうと思わせる笑みだ。
「辛い事も全部、一緒に乗り越えよう?」
―――あぁ、困るな。
決意が揺らいでしまう。剣に誓った、罪からの逃避行。
君さえもこの目に入れず、ただ君の前にある障害だけを見てそれを打ち倒すという妄執に取り憑かれた約束。
どうも、それが果たせそうにない。
多分、足を止めてしまったからだ。
難敵という難敵は居なくて、猛吹雪も大海も無い。ただ平穏に包まれて、足を止めてしまった。だから後ろから迫る罪に追いつかれてしまった。
まぁでも、仕方のない事だと思う。
人はずっと、前だけを向いては生きていけない。
過去と向き合う時は、願おうとも願わずともやってくる。
それが近い、それだけの事なのだろうか。
「...ごめんな、折角楽しい雰囲気だったのに」
俯きながら言う。今日だけで何度こう思ったかは分からないけれど、君の目を直視出来る気がしなかった。
「ふふ、何度でも言うよ。大丈夫だって!」
朗らかさを取り戻した君が笑いながら言った。
たったそれだけの事。でも俺はそれを嬉しいと感じてしまって、過去の闇に覆われた気持ちも一瞬で晴れてしまう。
「行こう?次の場所は君も気に入る筈だよ」
君は俺の手を取って進み出す。
エスコートというのには少し乱暴だけれど、それに救われた気持ちになるのはおかしいだろうか。
あぁ、本当に敵わない。
朱に染まりだした夕刻の空と、夕日を反射して煌めく君の金髪。やっぱり、君は何処から見ても綺麗だった。
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