第169話 苦悩

修正作業の息抜き

―――――――――――――



「書記長より貴隊のお手伝いを申し付かりました、補佐官のイヴァン・フェードロフと申します」


 そう言いながら差し出された手を握る。

 それは鋭い目つきの青年だった。彼が書記長の言う部下とやらだろう、何でも聞くと良いと笑っていた姿が思い出される。無論デートスポットなんて聞くつもりはない。


「隊長のライトだ。世話になる」


 有能、才ある若者。この青年にはそんな所感が湧く。そしてあの狸の直属の部下となれば、もはや信頼する余地はない。コイツとのやり取りは全てあの狸に伝えられることだろう。

 なんだか嫌な予感がするのだ、あの狸に俺の事が知られるのは。何もしなくてもどんどん暴かれている俺や懲罰部隊だが、こちらから開示する筋合いはない。というか個人的に嫌だ。

 俺は歪だ。それは知っているし、今更矯正する気はさらさらない。だがその原因から何まで知られてしまえば、それは弱みに成り得る。


 警戒心を新たに、しかし一応の握手を終える。


「貴隊の滞在場所へ案内します。質問があれば何時でもしてください」


 そう言って歩き出した青年の背を追う。

 まぁ、何もずっと気を張り詰め続けなければと言う訳では無い。変わらずやらなければいけない事はあるし、気を付けなければいけない事もある。しかし状況に一段落がついた事に間違いはないのだ。


「あぁー...久しぶりのベッド楽しみ過ぎるんだが」


 ディランが逸る気持ちを抑えもせずに言う。

 彼の顔にはいつも、というか今だって隈が浮かんでいる。恐らくは不眠症なのだろう。彼のスッキリした顔は見た事がない。

 だからこその発言。確かに睡眠に於いてベッドとは重要である。


 記憶を掘り起こしてみる。最後にベッドで眠ったのは何時だろうかと。合衆王国から追放される前は船のハンモック、追放されてからはずっと寝袋。

 その前はずっと戦争だ。王国への上陸作戦、帝国との戦争、そして人魔大戦。戦ってばかりだ。主に俺のせいだが。

 となれば、最後にベッドで寝たのは王国への反攻作戦の前。合衆王国の首都で国王と謁見した後だろうか。


 ...何年前だよ。


 なんて思案している内に目的地に到着したらしい。

 足を止めた件の青年の前には、先程の実利一頭辺な建物とは違い装飾が施されていた。ホテルか何かだろうか。にしては小さいが。

 改めて見回す。一棟、二階建て。驚くべき事に全室に窓が張られている。それもステンドグラスではない。王国や帝国の技術ではまず作れないであろう透明度だ。屋根付きの正面玄関の真ん前には美しい噴水があった。古風にも思えるが、王国のそれよりも洗練されている。


「本来は使節団や各地方からお越しになられる方々への施設ですが、貴隊の活躍を鑑み全館貸切される事となりました」


 ...いやぁ、本当に凄まじい歓待ぶりである。一応合衆王国でも救国の英雄、戦争の立役者と呼ばれていたが、ここまでの扱いは受けなかった。ちょっと落ち着かない。


 そうこうしている内にドアマンが扉を開ける。

 内装もやはり美しかった。大理石の上に敷かれた赤い絨毯、煌めくシャンデリア、高価そうな絵画の数々。ちょっとした社交ダンスができそうなホール、その奥にあるのは左右に広がる階段がある。

 ホテル、という風ではなかった。どちらかというと豪邸の類だろう。或いは貴族の館か。うちはさっきみたいに質素だったから良く分からないが。

 まぁ歓待に使う施設なのだろう。宿泊が主用途ではないと見た。


「寝室は二階にあります。一階は右手に食事、左手に団欒室が。食事の時間は8、12、19。本邸のスタッフが手配致します。本官は事務室に居ますので、何か質問や頼み事があれば何時でもお申し付けください」


 そう言った青年は、ピシッと敬礼すると階段の真横にあるドアへ消えて行った。いやはや、本当に凄まじい。語彙が尽きんばかりの豪勢な扱いである。


「...すっげぇな。なんか現実味がねぇよ、ここまで来ると」

「生きてて良かった」


 思い思いに安堵の言葉を放つ隊員達。何処か気が抜けているように思える。無理もない。これまでの道程は苦難に満ちていた。それがやっと報われると思えば尚の事である。

 隊員達には本当に感謝している。ここまで良く付いて来てくれたと、耐えてくれたと、そして戦ってくれたと。だからこそ、彼らは心の底から休んで欲しい。少なくともしばらくは余裕があるのだから。


 ...俺はそうもいくまい。

 俺が生きているのはサラの為だ。彼女の為に俺は生きているし、その理由がなければのうのうと生を謳歌する権利はない。寧ろ今すぐ苦しんで死ぬべき罪人である。

 そんな人間に休息なんて物はあるのだろうか。ない。許されない。


 剣でも振っていよう。少しでも彼女を守る力を着けるために。

 その顔に安堵と期待を浮かべる隊員達を目に、一人変わらず険しい顔を浮かべる。




 〇




 少女は窓の外を眺める。美しい花々が咲き、噴水が放つ水が月星の光を反射する中庭。その中で異質な存在が一つあった。

 風切り音と共に煌めくそれは刃。平穏と文化的な美が支配するそこで、暴力的でいて引き込まれるような美が振るわれていた。


 その剣の名はアスカロン、そしてその主はライト。

 ぼうっ、と。彼を眺めながら彼女は思案する。


 私を救ってくれたヒーロー。私の想いの人。

 私を守ると誓って、その為に自己犠牲をし続ける少年。彼は歪で、今だって私の為に剣を振るっている。その姿を見ていると泣きそうになる。心臓が刺されたように痛んで、喉に異物が詰まったような感覚がする。


 けれど、私にはどうしようもない。

 自分の為に傷つき続けるライトを見ていられない。過剰な自己犠牲を止めたい。


 けれど、私にその権利はない。彼が拒否して、私はそんな彼に守られているから。一体全体どうすれば良いのか分からなくて、やっぱり胸が痛くなる。




「お悩みですかな、少女よ」

「うわぁっ!?」


 親し気な声だった。慈愛と親愛に満ちた声でもあった。どこか安心感を与えてくれる、父性を宿した声だった。

 しかし余りにも唐突。驚きのあまり声を上げてしまう。


 二階の寝室からは彼が見えないからと移動したここは団欒室。他の人が居ても不思議ではない。しかしその声は彼女が知る隊員の物でもなく、口調からしてここで働いている人の物でもない。


 振り向く、その姿を目に収める。


 何処にでもいそうな、しかし優し気で親しみのある見た目の中年男がそこには居た。無論、彼女にとっては知らない人間である。


「えっと、誰...ですか?」

「私かね?ここの管理人みたいなものさ」


 それは嘘ではない。ここ、という言葉が指すのがこの国というだけである。まぁ大分無理はあるが。


「私で良ければ話を聞こうじゃないか。助けになる事を約束しよう」


 彼女の心に疑問が浮遊しては沈んでゆく。

 管理人が何故こんなところに居るのか、どうして私に話し掛けたのか。けれどそんなものは大して気にならなくて、何処か安心感を与えてくれる男の見た目もあってか彼女は口を開く。


「...どうしたら良いか分からないんです。私はライトの力になりたい。過剰な自己犠牲を止めたい。だけど、彼はそれを義務だと思っていて」


 一体、私は何をしているのだろうか。きっとまともな判断が出来ていないのだと思う。

 最近、ずっと眠れない。彼の事で頭も胸も一杯になって、考えても考えても結論は出なくて。何をすればいいのか分からなくて、ただ無為に苦しんでいる。

 けれど、それすらも苦しみ続けている彼に相応しくなるのに必要な事に思えて、ただただ苦悩する事しかできない。

 それでも、少なくとも初対面の相手に話す内容ではない。正体が分からない男の人に明かしていいのかも分からない。

 言われた側も迷惑なだけだろう。


「ふむ...」


 しかし、予想に反して男は真面目に思案し始める。

 時折自慢の髭を撫でながら考えに耽るその姿は、家族での旅行先を悩む父親のようだった。


「その悩みの結論は貴方自身が出すべきでしょうな」


 だが、思案の長さを裏切る様に、放たれた言葉は単純でありきたりだった。サラはどこか失望と落胆を感じながらも、話を聞いてくれた事への感謝を告げようとする。


「ただ、一つアドバイスを」


 そんな彼女の口が開かれる前に、男は言葉を続けた。


「彼の傍を離れない事です。拒絶するならば、多少強引にでも理由を作ってでも」

「...離れない」


 それは正解のように思えた。今自分にできる精一杯でもある。

 何が正しいのか、間違っているのか、何も分からない中でも確かな事が一つ。彼が自分を傷付ける姿は見たくないし、あれはやがて彼をも破滅へ導く。


 だから、せめてあの自己犠牲が過激にならないように傍に居よう。それはきっと、何も分からない中でも私が彼の為にできる事だ。


「明日にでも試してみては?何処かへ誘って行動を共にし、相手の反応を窺うのも手の一つでしょう」


 少し心が跳ねる。彼と一緒に街に繰り出す。それは甘美な響きだった。


「そうしてみます...!」


 明日は彼と一緒に何処かに出かけよう。孤独に剣を振り続けるようでは傍に居られないし一緒に話す事もできないのだから。


 そうして彼女は、どう理由をつけようかな、なんて考えながら自室へ戻ってゆく。その背中はどこか軽やかに見える。


「いやはや、本当に興味深い」


 髭を撫でながら男が、書記長が言う。

 その目に深淵を覗かせながら、心底面白そうな笑みと共に。




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