第121話
主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
―――新共同訳、詩篇23:1-3
――――――――――――――
魔物の侵攻によってだろう、至る所が破損しその、天井も崩れている廃墟があった。元がなんの施設かを推測する事すら困難なその廃墟には、しかし二つの人影がある。
「一度割れてしまった花瓶は、それはかつて花瓶だった破片でしかない」
人形か何かの様に地面に転がる壊れた少年。それに楽しそうに話し掛けるのは不気味な仮面を付けた男であった。
だがそれは会話というよりも仮面の男――エルの独り言なのかもしれない。何故なら彼が話し掛けているライトは時折譫言を呟くと共に何の絶望に満ちた片目で虚空を見つめるだけだからだ。
「一度壊れたものはもう壊せないだろう?だから継ぎ接ぎして直すんだ」
少年の耳にその言葉は届かない。いや、届いては居るのだろうが、それを言葉として認識する事が出来ないのだ。
そんなライトを植物のようだと評したのはヴァルターだっただろうか、確かにその表現は正しいだろう。
そんなライトの話し掛け続ける仮面の男はどこか滑稽だ。
今のライトの状況を簡潔に述べると、彼は誘拐されている最中であった。
ちなみに、最早何度目か数えるのも馬鹿らしいくらいライトはエルに攫われている。ライト本人に抵抗の意志がないとしてもこう何度も警備を突破されるのは王国兵の怠慢なのだろうか。いや、それは理不尽というものだろう。どんな人間であろうとエルを止める事など出来はしないのだから。
「お前の
まるで自分も使った事のあるような口ぶりであるが、彼の手にあるのは同じ物などこの世に一つたりとて存在しない筈の遺物である。それも二振りの、だ。
他人の
「だから専門家に任せる事にするよ」
エルはそう言い放つと姿を消した。
そして部屋に残されたのは壊れた少年が一人。
「...あ、あぁ...ぅあ」
一度壊れた心は治る事はない。
後悔と罪悪感、そして絶望に満ちたライトの心が救われる事はあるのだろうか。
まだ少年と呼べるその身に与えられるには大きすぎた苦痛、仲間の心ない言葉、判断力もない間に犯してしまった多くの罪、そして大切な人の無残な死。
だが運命は残酷だった。心を壊されたライトは、しかしただ壊れている事すら許されなかった。
最後に残った唯一の大切な存在であるサラを人質とされた今のライトには、壊れている事は許されないのである。
最もライトはその事実を正確に認識出来ていないが、しかし認識した所でどうにかできる問題ではないのだ。彼を苦しめる不可死の呪いは処刑される事を拒むであろうし、だからと言って処刑されなければサラがどうなるのか分からない。今のライト自身の行動によってその状況を打破するのは不可能である。
運命とはなんと残酷なのだろう。
過去は後悔に塗れ、今は罪悪感に満ち、未来は絶望で閉ざされているのだから。
だがなんという皮肉だろうか、あんな状態でも彼はかつて望んでいた物は全て為されているのだ。
かつて渇望した強力な
かつてと比べ様がない程の魔力がある。
かつて失われた剣を振る腕もある。
強大な力を手にし、重荷に感じていた期待は最早ゼロ。父と比べられ劣等感を感じる事もないし、貴族の面倒臭いしがらみもない。
なれば、これこそライトが望んだことではないか。
――あぁ、やはり運命とは残酷だ。
それを一番知っているのもまた、エルなのだろう。
〇
教会の中で一人の少女が祈っていた。
手を組み主に跪く彼女の胸に宿るのは懺悔か救いの願いか。
法衣をその身に纏う彼女のは聖女その人である。
聖女とは教会の象徴的存在――もっと一般的に言えば遍く全ての人に癒しを齎す、光と聖を司る最高位の聖職者だ。
そんな聖女の後ろには、彼女の対極に位置するような人間が立っていた。
「主よ、私に導きを」
誰かに見られている事を承知しながらも聖女は祈りを続け、やがて一言呟くとその男へと振り返って口調を強くして言い放つ。
「何の用ですか」
その男は仮面を付けていた。穴を二つ開けただけの目に、道化師の化粧のような大きく歪んだ笑みが象られている。
死と血の匂いをその身に纏った仮面の男を前に、しかし聖女は怯まない。
直接的な戦闘能力に於いては大きく劣っているだろう。襲われたら手も足も出ないだろう。しかし心までも屈してはいけない。
そんな強い覚悟をその胸に宿した聖女に、しかしその大罪人はあっけからんさせるような言葉を掛けた。
「君に癒して欲しい人間が居るんだ」
「...はい?」
何を言っているのか分からなかった。
一体誰を癒して欲しいのか、そもそもなぜこんなに突然言ってくるのか。今やエルは王国の影の最高権力者なのだから、わざわざ現れて伝える必要はないであろう。上層部に圧力でも掛ければどのみち聖女が癒す事になるのだから。
「...誰ですか」
だが人に癒しを求められたのなら、聖女はそれに答えなければならない。
それが義務であり存在意義なのだから。
「ライト・スペンサー」
その名前は、聖女の心を揺さぶるのに十分であった。
かつて聖女を襲う下卑た人間をその剣を以て除け、しかし勘違いによって己の全てを奪われた少年。それを切っ掛けとして多くの罪を犯し、心を壊された少年。
――その彼を、私が癒すのか。
聖女は、己が罪を向き合う事を迫られたのである。
だが――いや、だからこそ彼女はそれを断る事など出来はしない。
彼女は罪人ではなく、罪を赦し救いを与える側であるのだから。
自分のせいで罪を犯してしまったあの少年を、壊れてしまったあの少年の心を少しでも修復出来るのなら、それは是非もない事である。
「承りましょう」
聖女がそう言うと、エルは満足げに頷いた。
〇
聖女が連れてこられたのは廃墟の中だった。
所々に血のと焼け焦げた後があるその建物の中を、聖女はしっかりとした足取りで進む。
そして彼女は己の罪と対面する。
「...ライト・スペンサー」
彼はかつて見た姿とかけ離れていた。いや、見た目だけの話ならそうでもないだろう。片目が潰れそこから呪いが広がっているだけなのだから。
だが何より彼が纏う雰囲気が、その目の底にある感情が、彼をかつての姿とかけ離れていると思わせていた。
「...意味がなくとも、心からの謝罪を貴方に」
あぁ、私のせいだ。
全て私のせいだ。
彼に冤罪が掛けられなければ、あんなにも多くの人が死ぬ事はなかった。彼がこんなに苦しむことは無かった。
聖女という肩書を持っていながらなんという為体。なればこれは私の罪。もはや懺悔する民草を赦すなど傲慢だ。
だけど、神に許しを求めてはいけない。
神はきっと御許しになられるだろう。しかし私が許しを求めるべき相手は彼なのだ。
「罪滅ぼしにはならないでしょう。ですがこれが貴方の為になると信じています」
彼は答えない。ならばこの言葉に意味はないのだろうか。
否、これは私の覚悟を示す言葉である。
私に彼が救えるだろうか。
否、彼が自分の罪悪から救われる事はないだろう。
絶えぬ後悔によって自罰的になった彼の心を救うのは、それこそ時を戻さなければ不可能だろう。
彼が彼を許さない限り、彼の心が罪から解放される事はないだろう。
彼は罪深い。その罪が私のせいで起きてしまった事だとしても、彼が犯してしまった罪が消える事はない。
彼はその手で父親を、婚約者を、彼に生を願った仲間を、そして数多くの無辜の民を殺した。
だが、今の彼が自分を許す事などない。
きっと彼は自分で考える事が出来ないのだから。
「願わくば、貴方の心に巣食う負の感情を少しでも取り除かれん事を」
――だが私は聖女だ。
罪深くとも、傲慢であろうとも、私が聖女である限り人を救わなければならない。それが責務であり義務であり、人々の願いなのだから。
もはやこれ以上の言葉は必要ない。
「【
救いとはなんだろうか。救済とはなんであろうか。
それは神が齎される物なのであろうか。
それは聖職者によって齎せる物なのであろうか。
「【光は地の底、海の果てまで照らす】」
否。聖職者が人を救う事などありはしない。神が人を救う事はありなどしない。
私達が示すのは、何時だって道だ。その先に救いがあると信じて、神から授かった道を示すのである。
「【主は愛を以て人々に道を示される】」
だが、その道を進むのは本人にしか出来ないのだ。
「【慈しみと真は出会い、正義と平和は口付けする】」
主は羊飼い。しかし人は迷える子羊ではない。
自分で考え、自分で決め、自分の足で以てどんな道であろうと踏破し、立ちはだかる障害をその手を以て取り除く事が出来るのだ。
「【善を成せば、神はそれを喜ばれる】」
だが私が彼に道を示す事は出来ない。
今の彼に必要なのは目だ。
「【悪を成そうとも、神はそれを見守られる】」
道を見据える事が出来る、曇りなき目だ。
「【主に照らせぬ闇は無い】」
だから私がするべきなのは、その目を曇らせる負の感情を少しでも取り除く事なのだ。きっとそれだけでは救われない。ただの切っ掛けにしか過ぎない。
彼が進むべき道が何なのかは私には分からない。彼にその道を踏み出させる事も出来ないし、その道を歩ませることも出来ない。
だけど、それをやるのは私ではないのだろう。
だから、私は私が成すべき事だけを成す。
「【聖紋証・御光照真】」
空虚で荒廃した地に、暖かい光が差し込む。
未だ赤い空に、眩しく神々しい光が差し込む。
ライトの心にもまた、天使の梯子が差し込んだ。
―――――――――――――――
今更だがエルの仮面は天空を侵犯する漫画の敵がつけてるヤツみたいなのを想像してるよ。
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